刀 河内守藤原国助について
河内守国助(國助)は『鍛冶備考』によれば勢州亀山の城主関氏一政の騎士であり、関氏滅亡後に京に出て堀川国広の門に学んだと言われています。ところが関氏が滅んだのは寛永二年の十月のことであり、国広死後余年を経ているため、備考の説は誤りと考えられます。また同書に寛永九年までとありますが、正保四年五月三十日までというのが正しいです。
初代国助の作は、世間からあまり評価されていない傾向にあるのが現状です。それは同工の作刀が国貞に比して非常に少ないうえ、上出来不出来の差があまりにはなはだしく、技量にムラがあることが背景にあるといえるでしょう。事実、現存するものに見てもその通りで、よく出来たものは国貞の作に匹敵するばかりでなく、一門の先輩にも決して引けをとりません。ところが不出来のものは全く別人が作ったのかと感じてしまう程です。
そしてこの「刀 河内守藤原国助(國助)」は代表作の一口で、素晴らしい出来となっています。しかも刃文の出来は親国貞によく似ていますが、地がねはあくまでも堀川風です。銘も河内守の三字をやや小さく、藤原国助の四時を大きく切っており、これも、出羽大掾国路を始めとする一門の手法となります。
「刀 河内守藤原国助」長さはおよそ69.7センチ (二尺三寸強)、反りは1.5センチ五分強(五分強)。鎬造り、庵棟、やや身幅広めで中鋒となり、反りは浅い打刀姿です。鍛は板目、肌やや流れごころに地沸きがつき、地景が入ります。刃文はのたれて互の目で丁子交じり、足入り、匂深く小沸よくつき、物打上は飛入ります。帽子は乱れ込み先掃掛けて焼詰ごころに僅かに返る形です。茎は生ぶで、先栗尻。鑢目は大筋違いで目釘孔が1つ見られ、目釘孔の上から棟に寄せてやや太鏨に七字の銘が切られています。