刀 銘 奥州仙台住山城大掾藤原国包 寛永五年八月吉日について
藤原国包は、江戸時代前期の刀工で、初代国包とも呼ばれます。「刀 銘 奥州仙台(臺)住山城大掾藤原国(國)包 寛永五年八月吉日」は、初代国包の作中、おそらく最も優れた等級のひとつと思われる傑作で、その堂々たる姿は、当時の気風を余すことなく体現しているとも考えられるでしょう。
この刀の長さはおよそ74センチ (二尺四寸三分八厘)、反りはおよそ1.6センチ (五分二厘)です。身幅が広く、反りがやや浅めの中鋒となっています。鍛は柾目で特によくつんでいます。下半は柾鍛と鑑定できますが、上半はよほど注意しないと見落とす程によくつんでいるほか、地沸もよくつき、明るく冴えていて、中直刃仕立てに小のたれが交じった刃文です。
刃中は匂深く小沸がむらなくついて、頻りに頭の丸い互の目を入れ、足がよく入ります。総体に匂口がよく冴えて明るく、一見虎徹の刃文を見るような出来です。
ですが刀が作られた時期を考えるに、虎徹を見本としたとは思えません。いうなれば、大和伝を継承したうえで、鍛は保昌の古伝の流れを受け、刃は当麻派の傑作を理想とした作との見方ができます。寛永五年という年紀をふまえると、国包が山城大掾受領後間もない時代である37歳の時の作品です。だからこそ、こうした溢れる覇気と力とを感じさせるのでしょう。しかし彼の作には、他にこれほどのものは確認できません。
おそらく理由は、この刀が作られた時期にあるでしょう。初代国包は越中守正俊に学び、山城大掾を受領しました。それから仙台に帰ったのは、恐らく寛永四年頃、つまりこの刀が完成する少し前と推測できます。故郷の地に作った傑作がこの一振りであり、彼が常に念願とした祖保昌の再現にのみ精進したからこその出来なのでは、とも考えることができます。