刀 和泉守藤原国貞について
「刀 和泉守藤原国貞」は、長さがおよそ64.8センチ (二尺一寸四分)、反りがおよそ2.1センチ (六分八厘)と、比較的に小振りな刀となっています。鎬造りで庵棟、どちらかといえば反りが高く、中鋒となり姿が良いです。
鍛は板目が流れて、地沸厚くつき、冴えて明るく、地景よく入っています。刃文は浅くのたれ、互の目、丁子交り。足・葉よく入って、匂い深く、沸よくつき、冴えていて、砂流しと金筋が掛かります。掃き掛け帽子はわずかに乱込んで、長く返り、茎は生ぶです。先は刃上がり栗尻、鑢目大筋立ち。目釘孔はひとつで、七字銘が切られています。
国貞(國貞)は天生十八年、宮崎県の西教寺生まれです。もともとは「良慶」と名乗っており、法嗣として西教寺を継ぐ身でしたが、辞退。京都に入り、堀川国広(國広)のもとで学びました。彼が京都へ入った時期は明らかにされていませんが、おそらく二十歳前後ではないかと考えられています。
書籍「土屋押形」には、慶長十九年二十五歳作という銘の刀があり、おそらく国貞の作としては未完成です。慶長十九年は国貞が二十五歳のときで、師である国広が亡くなった年でもあります。国広の没後は、越後守国俦(国儔)の指導を受けた一振りと見てよいでしょう。
国貞が大阪に移住した時期もはっきりしていませんが、「和泉守」を受領したのは彼が三十四歳の元和九年です。その後、国貞は六十三歳で没するまで、鍛刀を続けます。晩年は道和と称し、その頃のものとして、二代目井上真改の代作や代銘などを確認できます。
この刀は、小振りでありながら地刃の出来が一段と冴えていて、地景を多く交えています。和泉守という三字を下の藤原国貞の文字に比べて小さめに切る特徴は、寛永九年頃の作から確認可能です。これは二代の代銘です。