水心子正秀は、江戸時代後期の名工で、日本刀作りに大きな変革をもたらしました。彼は出羽国(現在の山形県と秋田県)出身で、幼少期に母親や兄と共に山形県南陽市の赤湯町に移住し、そこで鍛冶の技術を学び始めました。22歳で武蔵国八王子(現在の東京都八王子市)の刀鍛冶師宮川吉英に師事し、下原派の技術も学びました。

 

「刀 銘 水心子正秀 出硎閃々光芒如花 二腰両(兩)腕一割若瓜」は制作年紀がありませんが、寛政年間の初期作品であるとされています。当時、『新刀辨疑』を出版した鎌田魚妙が、津田助広を新刀第一の作者と称揚しました。これと時代の風潮と相まって濤瀾刃(とうらんば)が流行しました。

この刀も津田助広に私淑する一口であり、身幅が広く踏張りがあり、反りの浅い、寛文、延宝頃に見られる新刀の姿をしています。小板目に濤瀾刃を焼き、助広に迫る出来ばえです。長さはおよそ69.4センチ(二尺〇寸九分)、反りはおよそ1.4センチ(四分六厘)。鎬造りで、庵棟、中鋒、反りは浅めです。地鉄は小板目肌が詰まり、地沸がついており、刃文は大互の目濤瀾となっています。匂深く、沸つき、匂口は冴えています。帽子は小丸に返ります。

 

濤瀾刃を焼く刀工は、正秀のほかに大慶直胤・加藤綱英・尾崎助隆・手柄山正繁等がいます。正秀の添銘はごく少なく、この刀の裏の「研ぎを出す閃々たる光芒花の如し。二腰両腕、一たび割れば瓜のごとし」の添銘も実に興味深いのではないでしょうか。

 

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