日本刀の贋物
贋物とは刀剣や装剣具の正真でないもの、本物でないもの。偽物・贋物(がんぶつ)・贋太郎・擬い物似せ物とも。古剣書にある似せ物には、偽物という意味のほか、悪意の無い模作という意味もある。刀剣における贋物作りの歴史は古い。すでに「大宝令」に見えている行濫がそれである。しかし、それは生鉄で造った刀を、鋼鉄製と偽って売るのを指したもので、後世でいう贋物とは、少し意味がちがう。
贋物には、偽物目的で作ったもの、後世の加工によるもの、鑑定でなったものなどがある。
偽物目的でつくったもの
最初から刀工や金工が、贋物を作る目的で作ったものの例として、まず源頼朝が関ヶ原で捕らえられた時、佩刀の「髭切り」は源氏の重宝なので、外藤に模造させたものを、髭切りと偽って平家に渡した、という古剣書の説がある。鎌倉中期、京都で作られた万里小路太刀も、この部類に入る。
桃山期になると、堀川国広の門人:根本国安が、相州正宗の偽物を作ったのを、国広が怒って役人に訴え出たので、国安は奥州磐城に流罪になったという。しかし、その国広自身も、石田三成の命で、相州正宗や豊後行平の偽物を作った、と本阿弥家ではいっている。上杉家の竹俣兼光の偽造事件は有名であるが、頼まれて偽造したのは、越中守正俊とされている。
幕末になると、水心子正秀を「贋物造り」と呼んだものがある。これは古刀の模作者のことで、偽物造りという意味ではない。しかし、当時、偽物造りが多かったことは事実のようで、窪田清音が、偽物を作らぬのは山浦清麿だけ、と言っているほどである。武州八王子の酒井正近は、野田繁慶の偽物を作ったのが発覚し、打ち首になった、という伝承がある。
正近が処刑されたのは、おそらく明治新政府になってからのことであろう。それ以前、旧幕時代は幕府をはじめ諸藩においても、偽物作りに対する罰則を定めていたところは、まずなかった。土佐藩だけは、名刀の偽作をしたものは、窃盗罪として処罰していたが、その他では明確な規定はなかったようである。ただし、盛岡藩では似せ物を商い候者は遠追放、亀岡藩では似せたものを売り候ものは敲き、という藩法があったから、刀剣関係の偽造犯も、こうした一般則を適用していたのであろう。
金工でも、水戸の篠崎勝国が、奈良利寿や横谷宗珉の偽物をつくり、銘まで切っていたことは有名である。しかし、処罰されたという話は残っていないが、現在は刑法上の私文書偽造罪で処罰される。
後世の加工によるもの
普通、贋物といえば、後人が偽銘を切ったものをさす。そのほか、継ぎ中心・折り返し銘・額銘・貼り付け銘・象眼銘などにも、贋物がかなりある。焼き直し物・焙じ物・ほやけ物なども、その事実を隠してあれば、偽物のうちに入る。
鑑定によって贋物になったもの
原銘を消すなどの工作をして、より上位の作という折紙をつけたものも、厳密にいえば偽物ということになる。幕臣:浅井武右衛門兼綱は、享保ごろの人で、百俵五人扶持という小身だったが、備前祐定の傑作刀を持っていた。愛刀家の豊田甚兵衛という浪人の勧めで、磨り上げ無銘にして、本阿弥家にやったところ、島田義助として金五枚の折紙を出した。さらに中心の格好を直して、本阿弥家にやったところ、相州正宗、金五十枚の折紙を付けてくれた。そせで金五十枚に売って、大もうけした。
慶安ごころか、大垣藩士の某は大坂に行って、数打ち物をたくさん買ってきた。それが試し斬りをしたところ、一本だけよく切れる刀があった。それを磨上げ物の形にして、本阿弥家にやったところ、相州正宗、金百枚の折紙をつけた。某はそれを藩主に献上した。藩主が本阿弥家を呼んで、これは大坂の数打ち物だったぞ。どうして相州正宗の折紙を出した、と尋ねたところ、これは肥前忠吉の打った数打ち物でございますしょう、よく出来ていますので、正宗と鑑定致しました、と返答した。その後、それは藩主の差料になったという。以上の二例のように、原作者がはっきり分かっているのに、造った刀工の作とする折紙のついたものも、やはり偽物と言うべきである。
贋作りとは、贋物を作ること、または作ったもの。偽作・偽造・贋造とも。これを旧作の贋・新作の贋に分けた古剣書がある。
旧作の贋
古い時代に作った贋物のことで、京の信国は粟田口吉光・京の来物・相州貞宗などを、よく偽作した。たとえ粟田口を偽造しても、吉光の銘字には九か所も口伝がある。そこまでは模刻できていないから、看破できる。そのほか、駿州の島田義助は、相州の新藤五国光・行光・貞宗など、伊勢の村正も相州行光や貞宗を偽作している。京の芝辻派は来物をはじめ、諸方の偽作をしているが、備前物だけはやっていない。備前物の丁子刃は難しいからである。幕末には京都の夷川に、六兵衛長吉という贋作りの上手がいた。
新作の贋
現代の刀工が作った贋物という意味。慶長ごろ、越中守正俊が上杉家の竹俣兼光の偽造をやった話、堀川国広に石田三成が相州正宗や、豊後行平を偽作させた話、逆に国広の弟子:国安が相州正宗の偽作をやったので、国広が怒り訴え出たため、国安は磐城に流罪になった話などがある。万治ごろにも、京都には偽作の名人がいて、相州貞宗や筑前左文字そっくりのものを作っていた。越前北庄の鍛冶は、京物・備中青江物・備後三原物・相州鎌倉物など、濃州関鍛冶は相州鎌倉物・筑前左文字・京物・筑前の末左文字などを偽作していたという。
偽物を新作する場合は、剣形と刃文を一致させるほか、地肌は細かに、刃幅は広く、沸え出来に作ったものを、磨り上げ物の格好にして、研屋にまわす。研師はそれを幾度も研いで、研げ減らし、地鉄を古いように見せかけ工作をする。
贋銘は作者自身が切った銘ではなく、他人が切った贋の銘。似せ銘・偽銘・擬銘・まやかし銘とも。これには他者の贋銘と、自作の贋銘とがある。
他作の贋銘
新古を問わず、他人の作品に偽銘を切ったもの。これが贋銘の大部分を占める。偽銘は、すでに鎌倉期から相当切られていて、豊後行平など、「にせ物ハめいをよくうつすなり」、と正和五年(1316)の古剣書に明記されている。
足利将軍義政は粟田口国綱の愛好者だった。それで当時の武将たちは、将軍への献上刀には、「国綱」という偽銘を切らせていたという。義政が嘉吉元年(1441)、赤松満祐に謀殺されたとき、出発前、佩刀が何か「ふしぎのしるしを見せ」たのに気付かず、偽銘の国綱を佩いて行ったからだ、と当時評判になったという。永正ごろ、青江真次の刀を、備前信房の偽銘の材料にしていた、という当時の記録もある。
豊臣秀吉の蔵刀中にも、「よし光 にせ物 刀」があって、大坂城の三之箱に納められていた。細川幽斎が美濃にいったとき、「正宗」と在銘の刀を見せられた。偽銘だったので、「美濃なるをばすて山も有ものを めいは有とて身をばのみそ」、と詠んだという話がある。江戸期になると、偽銘切りが盛んになった。それは「銘尽秘伝抄」「古今銘尽」など、押形入りの刀剣書が出版され、大衆が容易に入手できるようになったからである。
さらに数打ち物の流行によって、偽銘が激増していった。延宝ごろ、大坂の内久宝寺町に、揚弓師で六兵衛という偽銘切り師がいた。刀工銘を実物大に彫った木判を作っておき、それを捺した紙片を刀の中心に貼りつけておいて、鏨で銘を切った。和泉守国貞・越前紙助広・河内守国助をはじめ、大坂鍛冶を網羅し、さらに奈良・伏見の刀工にまで及んでいた。それは刀の出来や作風によって、それに適合した木判を選定し、切銘していたからである。幕末には、次郎兵衛・孫右衛門・八郎兵衛・小兵衛・三郎兵衛・孫助などの偽銘切り師がいた。
江戸にも、幕末には、鍛冶平または彫り平こと、細田平次郎直光という偽銘切り師がいた。大慶直胤の門人で、播州姫路藩工として三十人扶持をいただいていた。刀を作るより偽銘切りが上手だった。繁慶の銘は彫り銘であるため、難しいが、津田助広などは何でもない、と豪語していた。山浦清麿の無銘刀に、清麿の偽銘を切ったのを見て、清麿が、この刀は無銘でよい、という注文だったのに、いつ銘を切ったのだろう、これはしくじった、と頭を掻いていた、という逸話もある。鍛冶平は几帳面な男で、自分で切った偽銘の押形帳をのこしている。それを見ると、偽銘のみならず、相州上位物や本阿弥家の金象嵌銘も、多く偽作していたことが分かる。
贋銘の特殊な例として、改竄銘がある。古剣書に、加州の「藤嶋」銘を、粟田口国友の「藤林」に、備前の「吉用」銘を、同じ備前の「吉平」に、長船の「倫光」を同じ長船の「兼光」に改竄することをあげている。村正は江戸時代、一般に禁忌とされたため、「村正」を「正宗」「正広」「村宗」などと、一字を入れ代えたものがある。「下坂」も下り坂と詠まれるのを嫌い、「本坂」「相坂」「兼法」などと直したものがある。以上の改竄銘は贋銘ではあるが、銘字だけからいえば、半分だけが偽銘ということになる。
なお、もう1つの特殊な例として、井上真改の子:門兵衛国貞は、父が生前、気に入らず、長持に抛り込んでおいたものを、父の死後取り出し、「井上真改」と銘を切って出した、という伝説がある。これは、真改が生存中ならば、「代銘」であって問題にならないが、死後であるから、贋銘ということになろう。
新作の贋銘
これは刀工が新しく刀を作り、それに他人の銘を切った場合で、「贋作り」のうちに入る。京の万里小路にいた永昌は一生、来国行の偽物ばかり作り、自分の銘は希れだった。同じ万里小路の刀工:行吉は、来国行・備前一文字・備前三郎国宗などの偽物を作り、銘はよく似せていたが、鋩子の出来が悪かった。中島来国長は来国光の偽物を作ったが、国長の切った銘は正真より大振りだった。畠国俊が作った来国光の偽物は、「光」の字に特徴があるという。京の信国も来国俊・相州正宗・貞宗などの偽物を作ったという。
特殊な例として、了戒が死ぬと、その子の久信や久国は、父そっくりの銘を、一、二年間、切ったあと、初めて了久信・了久国などと、自分の銘を切った、という伝説がある。これを親の偽作とする見方もあるが、「論語」に、父の没後「三年、父ノ道ヲ改ムル無キヲ、考ト謂ウ可シ」とある。この教えに従って、初めは父の銘振り通りに、銘を切っていたのだ、という解釈もある。
もう1つ、特殊な例として「恩銘」がある。相州広光は経済観念に乏しかったとみえ、常に貧乏していた。弟子たちに小遣い銭もやれなかった。それで弟子たちの稽古打ちの脇差に、「広光」と銘を切ってやった。これを恩銘の広光という。これも刀身を主として見れば、やはり贋銘のうちに入る。
贋銘を切るには、まず書体が正真にそっくりであるを要するから、古くは正真の銘を臨模または敷き写しした紙、近ごろは複写した紙を、中心に貼り付けておいて、銘字のうえを鏨で切っていく。さらに銘字の起筆・終筆に鏨を加え、銘字を修整していく。それを看破する方法として、古剣書は、まず躍り鏨と鏨枕をあげている。贋銘は字形を気にしながら切るので、勢い鏨の進む速度が遅くなる。したがって字画が渋滞し、筆勢がなくなり、躍り鏨なども見当たらなくなる。つまり字が死んでいることになる。
つぎに鏨枕が立っていると、最近切ったことが分かるので、鑢をかけて鏨枕を取ってしまう。さらに銘字のなかを腐らすため、銹付け薬をつけるから、鏨枕も腐り消えてしまう。なお、新しい贋銘は、銘字のなかの銹が赤味をおびている。なお、中心をすって、新しい鑢をかけ、銹付け薬をつけたものは、銹の色が新しいほか、鑢目が腐ってはっきりしないばかりか、星といって、釘の先で突いたような、小さな凹みの出来たものもある。