「新刀にはなぜ美濃伝系の刀鍛冶が多いのですか」という質問が寄せられていますので、お答えしましょう。
室町時代後期には、六~七割は備前伝と美濃伝が占めています。ところが、新刀期(慶長五年〈1600〉関ケ原の戦以降)に入ると、約七割が美濃伝系の刀鍛冶によって占められ、備前伝が大きく減少してしまいました。その理由として、次の三つが考えられます。
① 天正十八年(1590)の吉井川大洪水
②織田信長の楽市楽座令
③美濃刀の魅力
それぞれについて詳しく見てみましょう。

■備前鍛冶の壊滅
吉井川の大洪水は下流にあった備前長船村を壊滅させ、備前鍛冶はほぼ全員溺死してしまったと言います。その後の備前刀がほとんど見られないことは、その事実を物語っています。天正十八年から新刀期の入り口である慶長五年まではわずかに十年しかなく、この間、備前伝を継承する刀工は現れませんでした。それから約六十年を経て、慶安(1648~52)のころ、備前伝の特色である丁子乱れや乱れ映りを表すソボロ助広がようやく出現するのです。少し遅れて寛文(1661~63)のころ、石堂一派(江戸・大坂・紀州・福岡)や備前鍛冶の上野大掾祐定らが活躍しますが、古刀期の備前物のような隆盛は見られませんでした。

■美濃鍛冶の全国展開
戦国末期から慶長年間にかけて、全国各地で有力大名による都市型の城造りが行われました。その折、城下には武家屋敷のほかに職人町・商人町の区割りがなされ、町の発展が図られました。大名たちは優れた刀鍛冶を招致するために鍛冶町をつくり、さまざまな優遇措置を講じたのではないでしょうか。これを少しさかのぼる天正四年(1576)、織田信長によって安土城下で楽市楽座が行われました。諸大名がこのモデルケースを町づくりの参考にしたことは間違いありません。さらに、信長の楽市楽座令により関の鍛冶座が崩壊し、美濃鍛冶たちは座の掟に拘束されることなく、新天地を求めて自由に全国各地に向かうことができました。この時期に全国に展開した関の刀工たちは図に示す通りですが、その後江戸時代を通して何代も続き、さらに枝分かれして広がりを見せ、美濃伝が新刀期の七割を占める要因となるのです。

■美濃刀の特徴当時、美濃刀は切れ味が優れていることや、折れず曲がらず実用刀として大いに定評がありました。まだまだ戦乱の収まらない時期であり、諸大名は関鍛冶を高く評価し、城下に優れた刀工を受け入れようとしたのです。
室町期の関鍛冶の作風の特徴は、
① 姿…切れ味重視のため、重ねはやや薄く、平肉の乏しいものが多い。
② 地鉄…板目が流れ柾がかるものもあって、総じて白けている(ただし、新刀期の美濃伝には白けるものはない)。
③ 刃文…互の目が主体で尖り刃が目立ち、中には三本杉と称される独特な刃文や、頭の丸い兼房乱れ、箱がかった湾れ刃などもあり、表裏の刃が揃う傾向がある。
④ 帽子…乱れ込み、やや倒れて地蔵風になるものが多い。
これに対して新刀期の美濃伝は、古刀期の作風を完全なまでに踏襲するのではなく、各自、各時代において、美濃伝を部分的に取り入れながら創意工夫を重ね、発展を続けました。
以上のようなさまざまな理由から、新刀期には美濃伝系の刀鍛冶が多いのです。

(刀剣界新聞-第54号 冥賀吉也)

慶長ごろ各地に移動した主な関鍛冶 関出身の代表刀工の刃文

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