太刀屋とは、太刀に拵えをつける店。太刀師とも。京都には貞享(1684)のころ、小川元誓願時下ル丁(中京区)に藤原播磨、烏丸上長者町下ル丁(上京区)に、藤原和泉という太刀師がいた。打ち刀が佩刀の主流になるまでは、太刀屋と刀屋は分業になっていた。太刀屋自身でも刀を作ったものがいる。京都の太刀屋座の代表だった広野与三左衛門には、天文11年(1542)、「太刀屋広野与三左衛門久吉」、と在銘の作がある。

太刀座とは、太刀だけを売買する同業組合加入の専売店。京都の四条町には南北朝のころ、小さ刀専門の刀座とともに、太刀座があって繁昌していた。刀座の区域は嘉元2年(1304)に買い取ったものというから、太刀座も当然あったはずである。応安2年(1369)、幕府は四条町の立ち売りを禁止している。これは太刀や刀の立ち売りをされては、太刀座や刀座の商売に差し支えるからであろう。これは太刀屋や刀座から、要請があってのことと想われるが、大永元年(1521)12月には、14日に太刀座一同から、17日は太刀屋七郞左衛門宗次の個人名で、幕府に対して、先代の奉書筋目のとおり、座中の法度をまもり刀商売のできるよう、仰せ付け下さい、と訴願している。なお、宗次自身が同年に作った刀には、「太刀屋座中太刀屋七郎左衛門宗次」、と銘を切っている。
太刀座のなかには、将軍の御用太刀屋があって、それは課役を免除されていたが、天文10年(1541)11月、将軍義晴が江州坂本へ逃げ出すと、将軍御用でも課役を命じてきたとみえ、翌11年(1542)12月、広野与三左衛門久吉は幕府に対して、課役の免除を願い出ている。来国行と綾小路定利は、お客の注文が間に合わないときは、互に刀を借り合い、自分の銘を切り、お客に渡していた、という伝説も、両工が同じ太刀座の特約工という関係から、太刀座の口ききで、それが出来たのかも知れない。

刀屋とは、刀を売買する店。古くは太刀屋といった。平安期の京都には東西の両市場があり、太刀屋は東市、51店のうちにあった。市は市司の支配下にあり、六衛府の舎人たちも、帯刀しての入市は禁じられていた。江戸初期までは太刀屋という名称が多く遣われていた。延宝(1673)ごろの太刀屋として京都では藤原播磨・同和泉、江戸では加右衛門・播磨・又左衛門らの名が知られていた。刀屋という呼称は大坂でよく用いられたようで、同じころ大坂の「刀屋」は、一町目筋の南北に多く、金や介左衛門の座がもっとも大きかった。
元禄(1688)ごろ、京都の寺町三条・油小路二条などにあった「刀屋」は、奈良・美濃その他の諸国から集めた数打物に、拵えをつけて売るのが主だった。大坂には全国から刀が集まったので、文政(1818)ごろには、「御刀脇差拵所」と称する刀屋が64軒もあった。江戸では嘉永(1848)のころになると、日本橋久松町には、新作刀を主として、安価な刀をあきなう店が多かった。芝日陰町のほうはそれより高級で、古い刀を取り扱う店が多かった。幕末になって太刀屋といえば「使い太刀」、つまり祝儀または贈物用の模造刀をあきなう店をさすようになった。
刀屋で敵討ちをした者もいる。熊本藩士の大館七郎右衛門は、君前の試合で浮田伝吾右衛門に負けたのを怨み、伝吾右衛門を闇討ちして出奔した。たまたま浮田家に寄食していた、薩摩浪人の佐野鹿十郎は、伝吾右衛門の次男:民之助を伴い、敵討ちに出た。江州まで行ったとき、それを知った七郎右衛門のため、民之助はかえって返り討ちにあった。
鹿十郎は単身、敵を求めて奥州白河まで行った時、ある過失のため出奔していた、伝吾右衛門の長男:民十郎が、そこで刀屋になっているのに、偶然出会った。父や弟の横死を告げ、連れ立って敵討ちの旅にでた。越前福井城下に来たところで、玄蕃と変名している七郎右衛門を発見した。藩庁の許可をえて闘い、民十郎は傷きながらも、鹿十郎の声援によって、めでたく復讐をとげた。
刀屋は歌舞伎にしばしば登場してくる。もっとも有名なのは「長町女腹切」の半七。これは大坂道修町の刀屋の手代:半七が、元禄11年(1698)12月21日、石垣町井筒屋の遊女:お花と心中した事件の戯曲化だった。宝暦10年(1760)初演の「鐘鳴今朝噂」(いろは新助)の主人公:新助は、刀屋喜右衛門の悴である。「道中亀山噺」では、大坂の刀屋宇右衛門の手代:兵助が、親の仇討ちをすることになっている。なお、曲亭馬琴はこれを「刀屋半七浮名仇討梥月新月明鑑」という合巻本にして、文化7年(1809)に出版した。それでは時代を室町中期、場所も鎌倉を上方と翻案してある。

刀座とは、小さ刀だけを売買する同業組合加入の専売店。南北朝時代、京都の四条町に太刀座とともに刀座があって、繁昌していた。その刀座の区域は、嘉元2年(1304)に買い取ったというから、京都の刀座は、鎌倉中期にはすでにあったと想われる。粟田口吉光・新藤五国光らが、小さ刀つまり短刀ばかり造っているのは、小さ刀専門の刀座の専属工または特約工だったからであろう。そのため、吉光も国光も焼刃土を塗るのに、手間のかからない直刃に終始したのであろう。

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