刀剣の代付け
代付けとは、刀剣の標準になる代価を決めること、または決めた代価。代付けの始まりは、足利将軍義政の時という。当時、幕府には論功行賞として、与えられる所領がなかった。その代わりに刀剣を与えることを思いつき、義政は、当時目利きの第一人者だった宇都宮三河入道に命じて、刀剣の代付けをさせた。最高を七千五百貫(金三百七十五枚)として、それ以上の功ある者に初めて所領を与えることにした。それ以下は、功の大小によって、刀もそれに応じた代付けのものを与えることにしたという。しかし、その代付けが後世に伝わっていないところを見ると、この説は、三河入道の定めた可燃物から出た虚説のようである。
鎌倉時代末期、正和頃(1312)に、大和国の国正作の太刀の代金は三十貫であり、備前国の助重作の太刀の代金は五貫ほどであった。足利将軍義政時代の「能阿弥本」には、同じ刀工でも代付けのあるものと、ないものがあるから、代付けは後人の追記と見るべきである。しかし、大進房が千疋の刀に彫物をすれば、千三百疋・千五百疋くらいの高値になる、という頁は各書にあるから、原文にそうあったとみるべきである。
代付けを総合的にしたものの初見は、右衛門三郎という人が代付けを行ったものを、文明10年(1478)2月、右衛門尉常氏が写した写本がある。それによれば、粟田口吉光が短刀で百貫、三条宗近・粟田口久国・粟田口国綱・相州正宗・豊後行平らが太刀での代金で百貫とみられる。長享年間(1487)の写本では、古備前友成が五千疋、奥州舞草が万疋という注記がみられる。永正頃(1504)、濃州蜂屋正光の脇差は、京都では二百疋ぐらいだが、濃州では五百疋もの高値を呼んでいた。
天文頃(1532)、三条宗近が万疋、河内有成が千五百疋、相州行光が五十貫、古備前友成が六十~七十貫だった。天正頃(1573)、竹屋家では、三条宗近・粟田口吉光・粟田口国綱・豊後行平などを百貫、相州正宗が五十貫、来国行・相州貞宗・郷義弘・一文字則宗・長船光忠などが三十貫と極めている。なお、この時代から、代付けを上々・上・中・下上・下などというように、位付け(ランク)する法式が行われ始めた。
桃山期になると、本阿弥家が代付けを貫や疋の代わりに、大判の枚数によって折紙を発行するようになった。それに倣って、元禄15年(1702)にでた刊本によると、「三作」の吉光・正宗・義弘は無代として、最高は相州貞宗の五十枚、あとは和州当麻と長船長光の三十五枚、ついで粟田口国綱・来国俊・手掻包永・鎌倉一文字助真・備前三郎国宗・相州行光・越中則重・志津兼氏・備前則宗・守家などの二十五枚となっている。幕末になると、相撲番付に倣って横綱・大関などの順で表示することも行われた。