同田貫正国
同田貫正国(どうだぬきまさくに)
- 古刀中作
- 業物
- 肥後国 (熊本県)
- 室町時代後期 天正頃 1573-1592年頃
同田貫正国は、肥後同田貫系の刀工で姓は小山、諱は初め信賀、通称を上野介という。子孫の説によれば、発祥地は肥後国菊池郡城北村稗方、戦後の熊本県鹿本郡菊鹿町稗方にある”同田貫どんの跡”という。稗方は菊池氏の拠った隈府城の西北、約3㎞のところで、同田貫鍛冶の屋敷跡は、すこし高台の畠になっている。刀銘にも「肥州菊池住信賀」「肥州住同田貫上野介」と切ったものがある。稗方も同じく昔の菊池郡にあるので、上野介正国ら同田貫鍛冶が菊池住延寿鍛冶の末流といわれる由縁となっている。上野介正国の嫡流である小山家所蔵の系図は、正国の子:左兵衛門秀朝の書いた古い物であって、それには菊池氏の子孫で、正国より四代前から小山姓を名乗ったことになっている。なお、同国球磨郡にも駐槌し、「肥後国求麻住同田貫信賀」とも切っている。定住したのは、同国玉名郡弥富村亀甲、戦後の玉名市亀甲だった。それで、亀甲を、俗に同田貫村と呼ぶようになった。同田貫の語源については、諸説あり「死体を田圃のあぜの上において、胴を試したところ、田まで貫いた」、という話もあるものの刀銘に「胴田貫」と切ったものはない。
熊本城主:加藤清正から「正」の字を与えられ、信賀を正国と改めたという。正国の没年は後裔の家の墓碑や位牌によれば、慶長18年(1613)11月19日というが、享年は不明である。作風として、身幅広く、重ね厚く、切先の延びた豪壮な姿で、槍や薙刀も多くみる。地鉄は杢目肌立ち、刃文は互の目乱れ、湾れに乱れまじり、直刃などを焼く。
正国家は二代:秀朝から、刀鍛冶をやめていたが、九代目の正勝のときに再び鍛冶職を復興した。相州伝にあこがれ、薩摩の伯耆守正幸に入門、華やかな作品を多く遺している。大和守も受領、大いに家名をあげた。正勝の嗣子:延寿太郎宗広は熊本城下の沼田有宗に師事したので、一変して備前伝の丁字乱れになっている。
小山家の墓は同家の屋敷内にある。正国以下、五輪塔や宝塔式の堂々たるものが多い。さらに正国の三〇〇年祭の記念碑なども建っている。戦後になると、屋敷の前が小さな公園風になり、「胴田貫趾」という石碑も建てられた。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
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