後家兼光
後家兼光(ごけかねみつ)
- 刀 無銘 備前兼光 (号:後家兼光)
- 静嘉堂文庫蔵
- 長さ 2尺6寸4分(80.0cm)
- 反り 6分8厘(2.1cm)
後家兼光は上杉謙信、景勝の二代にわたって上杉家に仕えた老臣:直江山城守兼続の佩刀であった。兼続は知仁勇、兼備した武将で、その優れた人柄により主家の上杉家は勿論、太閤:豊臣秀吉からも厚遇を受けた。而して秀吉の没後、遺品として兼続へ贈られたのが本刀である。元和元年(1619)12月19日、兼続は没するが、その後、兼続の未亡人から主家の上杉家に献上され、幕末まで「後家兼光」として上杉家に伝えられた。
明治維新の際、上杉家は会津を中心とした奥羽越列藩同盟に参加したが、縁者の山内容堂の助言でその罪を免れた。その恩義に報いるため上杉家では伝来の名品を容堂に贈って謝意を表したが、本作はその中の一つで半太刀風の豪華な拵えを新調して後家兼光を収めている。
造りこみは鎬造り、庵棟。大磨り上げ、身幅広く、先張って先反りがつき、大切先の豪快な姿。鍛えは杢目に板目流れて交じり、地沸えからみ、総体よく錬れて肌模様渦状に巻き、美しく立つ。地映りはやや不鮮明な乱れで、匂い口は締まって沈む。鋩子は浅く湾れこみ、先尖って返る。表裏に幅広の棒樋を描き通し、樋先は下がる。中心は大磨り上げ、鑢は勝手下がり、目釘穴二。無銘。
大磨り上げされており、生ぶ姿は三尺有余の豪快な大太刀であったと思われる。総体頗る健全で、刃文は焼き幅の広い湾れに小互の目を交じえて焼かれており、典型的な延文兼光の作刀である。姿、刃文に相州風が強く現れているところから、延文・貞治年間の長船物を相伝備前と呼称している。この年代は全国的に三尺を超す長大な太刀が多く、また短刀も一尺有余で、身幅の広い寸延び短刀が主体になっている。
芦雁蒔絵鞘打刀拵 総長:111.0cm
付帯している芦雁蒔絵鞘打刀拵は、金無垢石目地総金具、柄は黒色糸で重ねぐる巻き、目貫は金無垢地、芦雁図(銘は際端に「良」、「次」とある)を差し目貫にしている。鐔は鉄槌目地、長丸形、打ち返し耳、水車、亀甲文図(銘「信家」)。鞘は黒呂色塗りに金のむら梨子地、芦雁の金の高蒔絵(「桃船<花押>の金粉銘」)。下緒は白茶色糸の重ね打ち。
目貫の桃船は幕末を代表する名工で、本拵を見事に飾っている。また鐔の信家は、中村覚太夫の「信家鐔集」にも載せられている名鐔で、とかく派手に傾きがちな拵に格調高い気品を与えている。
直江兼継は、山城守、上杉家の筆頭家老で盟友の石田三成と謀り、関ヶ原の戦いを起こした人物である。
木曾義仲の家臣:樋口兼光の子孫と称する。越後上田庄の出身で、同地を支配していた長尾政景の子である顕景(のちの上杉景勝)に小姓として仕える。景勝が上杉家の家督を継承すると重用され、断絶した直江家の家付き娘の船を娶り直江家を継ぐ。その後は筆頭家老となり、豊臣政権下では陪臣であるにもかかわらず、出羽米沢で寄騎の所領を合わせて三十万石という大大名並みの禄を得て、小早川隆景・堀直政らと「天下の三陪臣」と称されるようになる。
秀吉が死去すると、石田三成とともに家康と対立、「直江状」を送って家康を激怒させ、関ヶ原の戦いにつながる会津遠征を行わせる。関ヶ原と連動して起こった東北での戦乱においては、徳川方の最上・伊達の兵と激しく戦う。長谷堂城の戦いでは苦杯を舐めたが、撤退戦で見事な指揮ぶりを見せた。
関ヶ原の戦いののちは内政に注力し、治水・鉱山開発といった事業を積極的に行い、出羽米沢藩の財政の基礎を作った。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 2尺6寸4分(80.0cm) |
反り | 6分8厘(2.1cm) |
元幅 | 1寸1分(3.3cm) |
先幅 | 9分(2.7cm) |
元重ね | 2分5厘(0.8cm) |
先重ね | 1分8厘(0.5cm) |
茎長さ | 7寸5分(22.7cm) |