後藤藤四郎(ごとうとうしろう)

  • 指定:国宝
  • 短刀 銘 吉光 (名物:後藤藤四郎)
  • 徳川美術館蔵
  • 長さ 9寸1分半(27.7cm強)
  • 反り 内反り

 

後藤藤四郎は粟田口吉光作の短刀で「享保名物帳」に所載する。江戸幕府の初代金座を努めた後藤庄三郎光次が旧蔵というが、後藤庄右衛門旧蔵という異論もある。光次は、美濃国加納の城主:長井利治の孫にあたり幕府お抱えの装剣金工家の後藤光乗(4代)の猶子となる。光次の祖父は、長井彦右衛門尉利治と言って、濃州加納の城主であった。この長井家というのは、かの「往昔抄」という押形集を編んだ美濃の豪族:斎藤家の一族であった。従って刀剣とは関係の深い家柄であったが、加納城が落城し利治が戦死すると、嫡子:彦四郎利徳は京都に亡命した。そこで徳川家康に拾われて、伜の光次も文禄2年に側用人に召し出された。光次は家康から厚い信任をかち得て、遂に金座、つまり造幣局長官のポストを与えられたのである。慶長冬の役に大坂城方の大野治長と講話を討議し、元和の役後、城中の金銀を接収点検した。寛永2年7月24日歿。
元和の初めごろか、代付けのため本阿弥家にきたときに、当主の座についていた光室は、指表の切先辺りの刃が焼き崩れている、といって、代付けを低くしようとしたが、すでに隠居して当主の座を譲っていた父の光徳がかえって賑やかで宜しいと褒めたので、金三百枚に決まったという。しかし、七千貫という異説もある。光室が本阿弥家を継いだのは元和元年10月頃であり、父の光徳が歿したのは元和5年の7月であるから、後藤藤四郎の極めはその間に行われたものとみられる。この評議会には加賀本阿弥家の光甫も若年ながら控えに出席していたのであった。後藤家から幕府の老中:土井利勝の許に移った時期は明らかでないが、三代将軍家光が土井邸に臨んだとき、拝領した金森正宗などの返礼として、後藤藤四郎と太刀:備前長光・刀:筑前左文字などを献上した。それを寛永5年(1628)9月2日とする説は誤りで、寛永6年(1629)8月28日が正しい。
その時のお成りは、利勝が寛永3年(1626)9月、将軍から拝領した油屋肩衝の茶入れの披露のため、という名目だった。事実、その時はそれで茶の饗応をしている。尾州徳川家の世子:光友に、将軍家光の息女:千代姫が入輿し、寛永16年(1639)9月28日、家光へ挨拶にいったとき、後藤藤四郎と五月雨郷(重文)の刀を将軍から拝領した。尾張義直(光友の父)には貞宗の刀、大森吉光の脇指が贈られている。
藩祖:義直の娘:京子と権大納言:広幡忠幸との間に生まれた新姫が、三代:綱誠にとつぎ、婚儀も進んだ寛文7年(1667)9月26日、二代:光友は後藤藤四郎を綱誠に譲った。
後藤藤四郎は後年幕府から危く取上げられそうになったことがある。鸚鵡籠中記によれば、尾州家の附家老:成瀬隼人正正勝の嫡子:因幡守正幸が、まだ若く江戸勤めをしていた元禄の末、幕府の老中から、木曽にある御料林を幕府に献上し、しかも江戸へ出府する手土産として後藤藤四郎を将軍に献上よう、内示があった。正幸は、千代姫さまの心のうちの思召しも測りがたいので、そんなことであならば藩主も江戸へは出府しないだろう、と断った。それを聞いた正勝は、わしもこれで安心して冥土へいける、と喜んだという。将軍に献上しないで済んだのででそれ以後、尾州家に伝来、現在、国宝として徳川美術館所蔵。

「名物帳」には、「尾張殿 後藤(藤四郎) 銘有 長さ九寸壱分半 代金参百枚
昔後藤庄三郎所持。光室極(め)也、光徳も出座也。表先の刃悪敷とて光室代付安し、光徳以(て)の外ほめて右之代に成(る)。光甫も其座に居慥(に)覚えたりと申(す)也。然るに御城御帳には五千貫と有。寛永五辰九月二日土井大炊頭殿宅へ 家光公渡御之刻上る。
千代姫君様御入輿之節拝領。」

徳川実紀 大猷院殿(三代将軍家光)御実紀 巻四十一
寛永十六年九月廿八日
千代姫(尾張二代光友室)御方西城の奥へまうのぼりたまふ。右兵衛督光友朝臣もまうのぼれり。白木書院にて御対面。(中略)光友朝臣へ五月雨郷の御刀。吉光の御脇差を引出物し給ひ。

尾張徳川家における記録では
・「源敬様編年大略、寛永十六年卯九月廿八日江戸白書院に於て婚礼の節瑞龍公(二代光友)へ御腰物五月雨江、御脇指吉光を家光公より贈進せらる」
・中将様御道具 御腰物御脇指帳(慶安五年-享保十六年)
一 銘有 吉光御脇指 代五千貫御拵有之由 大殿様より 是ハ寛文七年未ノ九月廿六日御祝言被遊、廿七日ニ市買(谷)御越之時、五月雨郷御腰物と共に被為進。
・鞘書
「仁二ノ参拾七(仁2-37)」 名物後藤粟田口吉光御小脇指 銘有長九寸弐分

形状は、平造、三つ棟、身幅広目にして重ね厚く、寸延びごころに、先の方内反る。鍛えは、小板目に小杢交じり、総じてよく練れて約み、地沸微塵に厚くつき、沸映り立ち、表裏ともにフクラ辺に地斑調の肌合交じり、特に指表は大肌気味となる。刃文は、広直刃調に浅くのたれ、小互の目と小丁字ごころの刃連れて交じり、足頻りに入り、葉かかり、匂深で小沸よくつき輝き、ささやかな砂流しかかり、淡く二重刃ごころが見られ、匂口明るく冴える。帽子は、フクラ辺より沸崩れごころあり、とくに表はそれが目立ってさかんに湯走り状となり、先の方激しく掃きかけて火焔となる。茎は生ぶ、先栗尻、鑢目極く浅い勝手下がり、目釘孔四。

「大判座」は大判を製造する役、「分銅座」は計量に用いる分銅を製造する役で、後藤宗家である後藤四郎兵衛家がともに任じていた。「金座(小判座)」は小判を製造する役で、後藤庄三郎家が任じていた。五代:後藤徳乗の時であるが、信長以来判金製造上の信用を持っている後藤家に、徳川家康から技術者の派遣を求めてきた。徳乗は弟の七兵衛(長乗)を名代として遣わしたのだが、七兵衛は病身のため長く関東に留まることを好まなかった。また、後藤家の人々は江戸は田舎者だからという理由で誰も行きたがらない。そこで徳乗は、気の利いた手代である橋本庄三郎に、「後藤」の姓と「光」の字を与えて一門に加え、後藤庄三郎光次と改名させて江戸に赴かせ、小判以下の鋳造事業を代行させた。その間の事情を物語ると思われる巷の記録が残されている。

「遠碧軒記」
古へ後藤に一人江戸へまいれとあれど江戸へ行きてなし、さて手代の庄三郎を下して仕合よし
「吹塵録」
初め関八州の主となられし時、京の彫工後藤の族に庄三郎というをめし給ひしが・・・・

この庄三郎を江戸に遣わすについては、いろいろな制約と約束がなされ、後藤家にその証文が遺されている。

後藤家の古文書
「一札箇条證文之事」
一、此度従太閤様判金座小判座吹替之役役儀被為仰付候處、貴公様御病気ニ付、為与御名代私義関東江罷下申候ニ付、後藤家之御猶子に被成下、其上後藤之御假名ヲ被下置く、難有仕合に奉存候事。
一、大判ニ後藤判与書申候義、堅仕申間敷候事。
一、同大判ニ桐之印堅仕申間敷候事。
一、小判壱歩ニ桐之極印堅仕申間敷候事。
一、後藤家、御代々御名乗字、光之字を御免被成下、光次与相改メ候義、私一代限りニ仕り可申候事。
一、後藤与申名字、私壱人斗相名乗可申候。一類兄弟ニ男末子等ハ堅右之御名字相名乗申間敷候事。
一、右御報恩ニ、毎年黄金三枚宛、私子々孫々ニ至迄、永代無相違差上ケ可申候事。
右七箇条之趣、私義ハ不及申、親子兄弟一類も無相違永代相守可申候。若相背申候ハゝ後名代之役義、何時成共一切御取上可被成下候者也。為後日之、一札箇条之趣、證文仍而如件。
慶長元年三月二日 証人庄三郎兄 後藤庄三郎(印判) 山崎喜六(印判)
後藤徳乗様 同四郎兵衛様 同長乗様

「奥書一札」
右之趣、相背申候ハゝ、及何年申候共、判金小判壱歩吹替私之得用一々勘定仕不残差上可申候ハ、尤御名代之役義者尚以御召上被下候者也。仍而奥印如此ニ候巳上。
三月二日
証人庄三郎兄 後藤庄三郎(印判) 山崎喜六(印判)
後藤徳乗様 同四郎兵衛様 同長乗様

手代の庄三郎は、徳乗に見込まれただけあってなかなか偉い人物であった。彼は家康に大判(十両)では大き過ぎると献言し、その献言が採用されて十分の一の小判(一両)が誕生した。文禄4年(1595)のことである。駿河および武蔵墨書小判といってわが国で最初に製造されたのがこの小判であった。更に光次が、それでもまだ大きいというので小判を四つに分けて一分金を鋳造したわけである。
このようにして庄三郎光次は、家康に重用され、そして徳川家の幣制は確立した。小判と小粒に光次の花押と文字が鋳込まれているのは、庄三郎光次のことであり、それは江戸末期までつづいた。
なお、起請文に対する違背はたび重なり、時代の推移とともにいたしかたのないことではあったが、庄三郎光次はその都度叱責され詫び状を提出している。後には、この金座は後藤家と分離され、別組織となったが、後継者が絶えたときか、金座に不正事件が発生して、当主が処分されたときは、後藤宗家から新しい当主が送り込まれている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
#後藤藤四郎

(法量)
長さ 9寸1分半(27.7cm強)
反り 内反り
元幅 7分6厘(2.3cm)
元重ね 2分3厘(0.7cm)
茎長さ 3寸8分弱(11.5cm)
茎反り なし

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