白山吉光
白山吉光(はくさんよしみつ)
- 指定:国宝
- 剣 銘 吉光
- 白山比咩神社蔵
- 長さ 7寸5分半(22.9cm)
- 反り なし
粟田口派の中では国吉とその弟子の吉光に剣の名作があるが、なかでもこの白山吉光の剣は名作として知られるものである。姿は先が張らず、平肉が豊かにつき、小振りでよく整っており、鍛えは細かによくつんだ梨子地肌で、沸匂の深い直刃を焼いて格調が高い、稀に見る名剣である。
形状は、両鎬・両刃造りで先のあまり張らない細身の剣である。鍛えは、小板目がよくつみ、地沸が細かによくつき、地景入り、湯走り交じる。刃文は直刃に小丁子交じり、二重刃ごころがあり、足入り、小沸よくついて匂口やや締まりごころになって明るく冴える。帽子は鎬に焼き詰めて先は掃きかける。茎は、生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一個、表の中央よりやや下に「吉光」と銘を切る。
白山吉光は、水戸藩主:徳川頼房の四女で、徳川三代将軍家光の養女となった大姫(清泰院、阿智子)が、加賀藩三代藩主:前田光高に輿入れした時に持参した。大姫の没後に四代藩主:綱紀が母の冥福を祈念して白山比咩神社に奉納された。
両刃のものを剣(つるぎ)といい、刀に似て両刃を剣、剣に似て一刃(片刃)を刀と区別されるようになったのは奈良時代になってからのことである。正倉院ぎょぶつの目録では、百振のうちに両刃のものは、金銅装剣とあるもの、ただ一振りだけで、あとは片刃で刀の名で呼ばれている。平安初期になると、剣(つるぎ)といえば、僧侶の護持の剣を指すようになった。
剣は武家の実用品ではなく、神社の御神体、仏像の胎内に納められたり、仏像の持物である三鈷柄付剣などの刀身、あるいは祭祀に用いられた。また、高位の高僧や山伏などの僧侶が護持の剣として身につけ、時代が下ると高貴な女性が守り刀として所持した。
平安時代以降に剣の作がみられるようになり、しかしながら両鎬造の剣は鎌倉中期以後に多く、山城では国吉・吉光・来国次、大和では保昌貞吉、備前では光忠、長光、景光、真守、元重などに遺作がある。
白山は、加賀国能美郡(今は石川郡)と、飛騨国大野郡にまたがる日本産名山の一。寛文以前は、シラヤマとよむ。白山の御前峰にある妙理大権現を奥宮、石川郡鶴来町の白山比咩神社を本営とする。明治以前の神仏混淆時代には、京都の比叡山の末寺で、僧兵は武器を携え横行していた。藤島友重も彼らへのよき武器供給者だったはずである。友重の師匠である京都の来国俊は、白山権現の信仰者だった。老後、友重をたずね刀を打った。それには裏名に「白山」、と切り添えた。なお、「来白国俊」と切った刀は、そのとき白山権現に寄進したもの、という伝説がある。しかし、それは「来源国俊」、と切った銘の「源」が朽ち、「白」」と誤読したものである。備前長船景光の短刀に「白山権現」、長船家助の応永19年(1412)作の短刀に「白山」と切ったものがある。加賀兼巻が寛永5年(1628)、寄進した大太刀に、「奉寄進白山妙理大権現御剣一振」、とあるのは、奥宮に奉納したもの。
白山水は、加賀国石川郡富樫郷野々市の天満宮近くにあった湧水。越後の山村安信がここに駐槌した時の銘に、「以白山水鍛之」、と切ったものがある。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
#白山吉光
(法量) | |
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長さ | 7寸5分半(22.9cm) |
反り | 反り なし |
元幅 | 7分2厘(2.2cm) |
茎長さ | 4寸0分5厘(cm) |
茎反り | なし |