泛塵(はんじん)

  • 脇指 (金象嵌銘)泛塵 真田左衛門帯之

泛塵は越中国(富山県)の宇多国次作の脇差の異名で、真田左衛門佐信繁(幸村)の佩刀と伝えられる。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣における幸村の死後、紀伊国(和歌山県)の高野山(伊都郡高野町)より売りに出たものといい、江戸時代後期の幕末には紀州藩士であった野呂某が所蔵していた。
茎には金象嵌で、「泛塵 真田左衛門帯之」と嵌入され、作者は室町期の越中国の宇多国次で、堀川国広が刀に磨上げを施したことも金象嵌によって刻されていた。
泛塵(はんじん)とは浮塵(ふじん)と同意であり、人の生命は空中に浮かぶ塵のようにはかないものと、達観した心境の表現である。

宇多派は大和国宇多郡から越中に移住してきた刀工群で、鎌倉時代後期の文保頃(1317)の古入道国光を祖とする。銘にすべて「宇多」の二字を冠しているのは、郷里宇多郡を表示したものである。越中で五印庄は五位庄の誤りで、現在の富山県西砺波郡福岡町三日市である。国光に「建武二二年五月日 越中国吉岡庄住宇多国光」と切った太刀がある。この吉岡庄とは五位庄の古名であるから、同一場所を指したものである。国次がいた十日市も、同じ五位庄内で、今は高岡市内に編入されている。
なお、国光は越中にくだると、宇ノ津または宇野津と号したという。しかし、銘にはすべて「宇多」で、「宇津」と切ったものを見ないが、宇津は地名という。同国の魚津を古くはヲヅとよぶ。ヲはウォと発音していたから、ウを強く発音していたから、ウを強く発音して、宇津と書いたのか。そのほか一門の宇多国宗は、新川郡大田庄本郷、今の富山市大田本郷に住していた。「大田保住」と切ったのも、ここのことであろう。
国房が殺されたという蓮沼は、砺波郡埴生庄、今は小矢部市内である。国重は新川郡下国重村、今の中新川郡舟橋村国重にいた。国弘がいた梁瀬とは、砺波郡般若庄、今の砺波市柳瀬である。宇多物で「宇多」の二字を冠したのは古入道国光の子孫、冠しないのは弟子筋という。その弟子筋の友次の屋敷跡は、砺波郡高楊郷下川崎村、現在の東砺波郡福野町下川崎の南端、畠の中にあった。ただし、今は人家になっている。世人は友次の作を「川崎打ち」と呼んでいた。同じく弟子筋の国次は川崎、または射水郡大袋庄鏡宮、今の新湊市鏡宮の薬師社境内で打った。ただし、現在その薬師社は現存せず、その位置を知っている古老もいない。
宇多物のうち、応永(1394)以前の古宇多物になると、小杢目肌に地沸えつき、上品な直刃もあるが、多くは応永以後の作で、地鉄は柾目がまじり粕立つ。刃文は直刃のほか互の目乱れもあるが、焼き崩れなどあって、棟焼きの多いものとなる。
宇多国次は同名数代あり、初代を国房の兄弟とも子ともいい、銘鑑では時代を正長としている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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