堀川国広(ほりかわくにひろ)

  • 新刀最上作
  • 大業物
  • 山城国(京都府-南部)
  • 江戸時代初期 慶長頃 1596-1615年頃

 

 

堀川国広は、新刀初期の第一人者で、古刀の相州正宗、新刀期の水心子正秀と並んで、「中興の三傑」とさえいわれる。現在の宮崎県東諸県郡綾町古屋の出身で、国広の父については伊賀守実昌、実忠、国昌などの三説あるが、国昌説が正しい。通称は覚右衛門または安兵衛、山伏としての名は旅伯庵、受領名は信濃掾、または信濃守でなる。信濃掾銘の刀は現存しないが、信濃守銘は天正18年(1590)から現存する。ただし天正3乙亥年(1575)受領説があり、天正15丁亥年(1587)年の誤りかも知れない。

国広の前半世は父の助手として、鍛錬および修験道の修行をしていた。天正5年(1577)の暮れ、藩主:伊東義祐が島津軍に大敗し、豊後の大友家を頼って逃れると、国広は義祐の外孫:伊東満千代(祐益)のお守り役として、同じく豊後の臼杵城に逃れた。伊東家が没落し、満千代が少年使節としてローマへ旅立ったあと、国広は山伏として身をひそめ、悶々の情を鍛錬に慰めていた。その場所としては宮崎のほか、その近郊の跡江・瀬ノ口、あるいは調殿(西都市)・富田(児湯郡新富町)などが、口碑として残っている。その後、上洛して、埋忠明寿と交わりを結んだようであるが、在京中、人を殺害し、難を下野の足利学校に避けた。そして国狭と変名して銘を切ったともいう。

天正16年(1588)、足利の領主:長尾氏を小田原の北条氏が攻撃してきたとき、国広は長尾顕長の軍に加わり、足軽大将として殊勲をたてたので、感状と吉広の槍を拝領した。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐のさい、長尾顕長に従って小田原に籠城したことは、国広が顕長の需めにより打った刀の銘により推察される。小田原落城後ふたたび足利学校に戻っていたが、ちょうどそのころ伊東満千代がローマから帰ってきた。その報に接したからであろう、天正19年(1591)の前半ごろ上京した。そして埋忠明寿に入門したという古説があるが、国広は年齢・手腕からいっても、明寿より上であるから、否定説が有力である。

やがて石田三成に抱えられた。佐和山城下での作があるというが、正真と見えるものはない。さらに石田三成に従い朝鮮にわたり、釜山における作があるという。さらに朝鮮人に密売して利を貪ったため、流罪になった、という説さえある。しかし「於釜山海」と切った刀に正真を見ない。なお、文禄の役のさい、石田三成は京城に滞在していた。その臣下の国広だけが釜山に滞在していたのもおかしいが、渡韓説を否定する決定的な根拠も見出せない。文禄の役が終わったあと、つまり文禄3年(1594)9月から、国広は石田三成の命をうけて九州にくだり、都城島津領の検知に従事した。文禄の検知の結果、旧主伊東家の新領地も決まったので、国広は伊東家へ復帰した。その時期は文禄4年(1595)と思われるが、石田三成の佐和山入城も同年である。この意味からも、国広に佐和山打ちはあり得ないことになる。

その後、京都一条堀川に定住し、鍛刀一筋の生活に入った。関ヶ原の役後、日向に帰省したときの銘には、「国筫」と切ったという説がある。国筫を国ヨシまたは国セバと訓ませてあるが、国マサと訓むのが正しい。すると、国広同人ではなく、国広の弟:壱岐守国政かも知れない。

国広は多くの門弟に囲まれながら、慶長19年(1614)4月18日没、84歳、法名明海祖白居士。

作風は、初期作は古刀風に地肌もあらわれ尖り心の互の目乱れを焼くが、後期作は新刀風にきれいな地鉄に地沸えつき、沸えの多い互の目や大乱れ刃を焼く。なお、彫刻に非凡な手腕を見せている。切れ味も「大業物」の部に入れてある。華実兼備の良刀を世に送ったので「新刀の祖」と讃えられている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
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