稲葉江
稲葉江(いなばごう)
- 指定:国宝
- 刀 (金象嵌銘) 天正十三十二月日江本阿弥磨上之花押(花押)(光徳)
所持稲葉勘右衛門尉 (名物:稲葉江) - 岩国美術館蔵
- 長さ 2尺3寸4分(70.9cm)
- 反り 6分7厘(2.03cm)
稲葉江は郷義弘作と伝える刀で「享保名物帳」に所載している。もとの所持者であった稲葉勘右衛門という人は、美濃国の清水城主:稲葉一鉄の庶子で、名は重執、のち重通と改めた。豊臣秀吉の馬廻役として小牧の役に従軍し、戦功をあげ河内国狭山郷を加増される。翌13年(1585)7月13日、兵庫頭に任じられた。その年の暮れに、郷の刀を本阿弥光徳に磨上げを依頼して、「天正十三十二月日 江本阿弥磨上之花押(花押)所持稲葉勘右衛門尉」と金象嵌を入れさせた。しかし重通の差料ならば、「稲葉兵庫頭」とするはずである。通称の勘右衛門というのは、五男道通が譲り受けているので、この金象嵌にある稲葉勘右衛門尉は、五男の道通のことということになる。金象嵌銘は埋忠家の手において施させたので、「埋忠銘鑑」にその押形が出ている。それには中心先に目釘孔があるが、現在はそれがない。その後、中心先を7分(約2.1cm)ほど詰めたことになる。金無垢の鎺には「白銀屋 村上源左衛門」と刻している。
勘右衛門道通は文禄2年(1593)長兄の跡をついで伊勢国岩手城主となったが、わずか二万五千石の小名。徳川家康から所望されればイヤととてもではないが言うことはできない。ついで五百貫で召し上げられた。慶長5年(1600)、関ヶ原の役が起こった。徳川家康ははじめ会津の上杉景勝が挙兵した報に接して、下野国小山まで軍を進めたとき、石田三成の挙兵が伝えられた。家康は踵を返して西方に向かうにあたり、北方にある上杉家の軍勢に対する抑えとして残す次男:結城秀康に稲葉江の刀と自らの采配・具足などを手づからに与え、激励して去った。
秀康の嫡孫:光長が越後国高田城主だったころ、奇人刀工:大村加卜はそれに仕えていたので、同家にあったこの稲葉江の刀を拝見することを許されたとみえ、その著「剣刀秘宝」のなかに押形を掲げている。それに、差し裏の鋩子のうえに、金輪があるが、一枚鋩子になっているため、判然とみえないこと、本阿弥光温が、日本に一つ二つの道具と、褒めたことが注記している。戦後まで、秀康の嫡流である津山藩の松平家に伝来していたが、戦後、同家を出て、現在国宝。
名物帳には、「松平越後守殿津山 稲葉(江)象嵌銘 長さ弐尺参寸四分 不知代
表裏樋。中心表(に)稲葉勘右衛門尉 裏(に)天正十二年十二月日江本阿弥磨上ルと象嵌。稲葉勘右衛門尉殿所持。 家康公五百貫に被召上、慶長五年 家康公下野小山迄御出馬之節奥州之押(を)秀康卿へ被仰付、其上時之御軍法御尋被仰上。家康公被遊御喜悦右之刀と御采配、御秘蔵之御具足秀康卿へ被進」
形状は、鎬造り、庵棟、大磨上げながら身幅が広く重ねが厚く、鋒の延びた刀である。鍛えは小板目肌よくつみ、地沸細かに厚くつき、地景入り明るく冴える。刃文は小のたれに互の目交じり、足入り、匂いが深く小沸がよくついて、所々に砂流し交じり、総体に焼幅が広く、物打より上は特に焼刃が深く、大模様に乱れ、極めて明るく冴える。帽子は乱れ込んで一枚になる。茎は大磨上げて、先剣形、鑢目勝手下がり、指表に金象嵌で「所持稲葉勘右衛門尉」、裏に「天正十三十二月日江本阿弥磨上之花押(花押)」とある。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 2尺3寸4分(70.9cm) |
反り | 6分7厘(2.03cm) |
元幅 | 8分9厘(2.7cm) |
先幅 | 6分2厘(1.9cm) |
鋒長さ | 1寸3分6厘(4.15cm) |
茎長さ | 6寸1分(18.5cm) |
茎反り | 僅か |