地蔵行平
地蔵行平(じぞうゆきひら)
- 太刀 銘 行平作 (名物:地蔵行平)
- 長さ 2尺5寸6分(77.6cm)
「享保名物帳」焼失之部にある豊後国行平作の太刀。もと足利将軍義教の御物、のち北条氏綱の重代で、鎺元に地蔵尊を彫る。天正9年(1581)4月12日、細川忠興が岳父の明智光秀を宮津城に招待したとき、宴半ばに地蔵行平を光秀へ贈った。のち徳川将軍家蔵となっていたが、明暦3年(1657)の大火で焼失した。刃長2尺5寸6分(約77.6cm)。「行平作」と三字銘だった。
名物帳には「御物 地蔵(行平) 銘有 長さ二尺五寸六分 無代 地蔵菩薩の彫物有之」
行平には同名の複数工が存在し同人とされている説もある。
大和行平
奈良の古市の住人、千手院行信の先祖といい、時代は永延(987)、または寛弘(1004)ごろ。左衛門太夫と号したというから、豊後の山里に住した鬼神太夫行平と同人説は成立しない。渡辺綱が村雲橋または一条戻り橋で、鬼を斬った太刀の作者とも、また太刀を鬼丸という異説もある。銘は草書体に切る、というが、昔から作品は希れといわれ、今日も確かな遺作を見ない。
鬼神太夫行平
すでに南北朝期の古剣書に見えている、伝説上の刀工。本国は大和、または大和行平同人ともいう。豊後の山里にすむ行平のもとに、髪はばらばらで、鳥の毛羽を着た童子がやって来て、私を村から追い出そうとする悪者を斬りたい。刀を造ってくれ、という。行平は望みに任せた。それで悪者を退治したお礼として、少年は相槌として住み込み、行平同様の名刀を打った。
それから3年後、行平が老いて病に倒れると、童子は一人で太刀六十六振りを打ちあげた。行平に、これからこれを売って、安楽に暮らして下さい、と言いおいて、姿を消した。それが作った刀には、鬼の指痕が残っており、銘は草書で「行平」と切ってあって。そんなことがあったので、行平を鬼神太夫と呼ぶようになった、後の実在の行平に対して、これを「昔行平」という。
実在の行平
これにも古くは、寛平(889)ごろと、後鳥羽上皇御宇と、二人いるとする説があったが、その後、後者一人とするのが通説となった。僧定秀の門人とするのが、今日定説となっているが、古くは逆に定秀の師とする説や、藤戸の弟子、または三池典太の門人とする説などがあった。さらに備前宗秀同人、または備前福岡一文字安宗同人、とする異説などもあった。
行平はもと豊後国岸庄の領主、岸本の領主、岸郡の領主、または峯庄の住人などという。峯庄は岸庄の誤記のように思えるが、千手院友行が豊後国峯の庄に移住した、という古剣書の記載もある。しかし、豊後に峯という庄はない。岸本の領主は、岸の本領主の誤記であろう。岸郡はもちろんない。行平の紀新太夫は紀ノ太夫だから、紀氏だったことになるし、行平の末流と称する後世の高田鍛冶の系図で、紀氏だったことになるし、行平の末流と称する後世の高田鍛冶の系図で、紀氏と称している。すると、古剣書には仮名書きのものがあるから、それに紀氏を「きし」と書いてあったのに、岸の字をあてたことも考えられる。
紀古の住人で、のちセツカトに居住、とする説は、郷土の伝称によったものであろう。紀古は鬼籠の音写で、大分県東国東郡国見町大字鬼籠のことである。鬼籠の小字・光明にキシンデーと俗称される所がある。紀新太夫の訛りで、鬼神太村または紀新田と書く。鬼神が相槌をしてくれた所だから、鬼籠と呼ぶともいう。キシンデーには行平の後裔と称し、紀姓の家が8軒ある。嫡流の紀昭生氏(鬼籠525番地)には、行平使用と伝える石の水槽や井戸の跡、金山神の石祠などがある。行平円氏(鬼籠539番地)にも、金山神の石祠がある。鬼籠の南方約7キロの西国東郡三重村大字夷字狩場、つまり黒木山の西側山腹に、鬼ヶ城という岩窟がある。行平はここで鍛刀したという。黒木山の東方に並びそびえる千燈岳の麓、野田にも居住したという。国見町野田字奧845の行平孝造氏の屋敷がそれで、金山神の石祠あり、行平所用の石造水槽や鞴がある。藩主の松平家では、初め領内巡視のさい、ここにきて鞴を見るのが例になっていた。鬼ヶ城の西南約8キロ、豊後高田市蕗の風器堂(国宝・富貴寺大堂)は、行平の建立というが、これは平安時代の建築であって、行平とは関係がない。それで大分市上之原に風器道を建立ともいう。なお、大分市元町(千手堂町)には行平の炉跡、同市二目字鍛冶屋には、屋敷跡などと伝えられる所がある。そのほかにも、大分郡野津原町日万の行平谷、宇佐市金谷、彦山の下の鍛冶谷(吉沢谷)などに居住ともいう。最後には大分市関門に定住したことに、高田鍛冶の系図ではなっている。そして、行平が汲んだという古井戸が、関園字仲摩の関園団地の東北隅から、10メートルぐらいの畑の中にある。鬼神が一晩で掘ってくれた、という伝説から「鬼の井戸」と呼ばれている。
行平の出自についても、高田鍛冶の系図では、いろいろ潤色されている。定秀から皆伝をうけたあと、肥前・近江・安房をへて、駿河の藍沢庄(静岡県御殿場市)に駐槌、鍛刀した。ここで藍沢庄司・藍沢出雲守行定の跡をつぎ、紀新太夫行平と改名したとも、あるいは定秀が肥前・近江・安房をへて、藍沢で駐槌中、嫡子の勝氏(勝丸)が藍沢庄司の跡をつぎ、行平と改名したとも、また単に駿河の産としたものもある。豊後に下ってきたのはいずれも大友能直が建久(1190)年中、豊後の守護職となり、下向してきたのに随伴したものとしている。しかし、現在の史学では、大友家が豊後に下向したのは、能直の孫:頼泰の後半生のこととされている。
高田鍛冶の系図では、行平流罪のことに触れたがらないが、故あって上野国月山に流され、正治元年(1199)まで16年間、禁足されていた、と説くものもある。下野国ならば、日光の北方10キロ余のところに、月山という山があるが、上野国にはない。これは古剣書に、行平が出羽に流罪中、打った刀には表に「月山」、裏に「行平」と切った、という伝説に拠ったものであろう。行平は訴訟中に、相手を殺害したため、上野国富弥庄(利根庄)に流罪になったので、後鳥羽上皇の御番鍛冶に入るはずのところ、中止になった、という説はふるくからあった。しかし、二十四人番鍛冶に選ばれた、という説もあるが、二十四番鍛冶そのものが後世の創作である。豊後の豪族:維方惟義が、寿永2年(1183)、宇佐神宮焼き討ちの罪で、上州利根郡沼田に遠流された史実があるから、行平の利根流罪も考えられないことではない。そのほか、相模国由井の飯島に流された、という説も古くからあった。由井の飯島とは、現在の鎌倉市由比ヶ浜の東端で、鎌倉期には舟着き場になっていた。つまり鎌倉幕府のお膝元であるから、ここに流罪とは考えられない。鎌倉から追放処分、ということも、ここは鎌倉の海の玄関だったから、そこに流罪ということは考えられない。なお、由井の飯島流罪をいわず、筑前太宰府に流罪、という異説がある。ここも鎌倉幕府が任命した鎮西奉行がいて、政治の中心になっていたから、ここに流罪ということもありえない。おそらく太宰府で投獄された、という意味であろう。
大分市二目川鍛冶屋町の地蔵尊の傍に、宝暦11年(1761)、同市高田関園字仲摩の妙法堂墓地に大正15年、行平の遙拝塔が建立された。行平の法名:顕徳院鉄山玄輝禅定門と、承久3年(1221)3月16日の日付がある。この日付は、行平が由井の飯島に流罪ときまり、出発したときの期日、ということになっている。高田の鍛冶たちは、この日、流罪地の方向を遙拝する定めとなっていた。この日を、行平の死亡日とする説は誤り、ということになる。前記の法名は、大分市鶴崎の東厳寺過去帳にあるもので、没年は貞応元年(1222)3月17日となっている。ただし、東厳寺は元亨元年(1321)の創建であるから、法名も没年も後世の追記ということになる。没年を元亨元年とする説は、すでに古剣書に載っていて、行年は76歳とも、78歳ともいう。行平の履歴として、元暦(1184)年中に上州へ流され、正治元年(1199)まで、16年間も服従した。同年、鎌倉から帰国。建仁元年(1201)に鬼神がきて、13年間滞在、建保元年(1213)に辞去などと、詳記したものがあるが、後世の作と見るほかない。
作風は踏張りあって、腰反りの剣形で、腰元に短い櫃内の倶利伽羅や神仏などを浮き彫りにするのが特徴。地鉄は小杢目肌に大肌まじり、禾肌があるので、これを行平の「花」という。地鉄に生気のないのは、焼き刃渡しの前に、素焼きするためとも、逆に焼き戻しをしたためともいう。刃文は直刃または湾れ刃に、小乱れまじり、鎺もとに焼き落としのあるのが特徴。銘は「豊後国行平作」と、刀銘に切ったものの多いのも特徴。名物として、駐連丸・地蔵・本多・北野・御鬢所・大・成瀬行平などがある。
地蔵菩薩
地蔵という名の起りは、「地」は万物を生ぜしめるものであって、種子をまけば成長して葉、花、実を作り出すように地は偉大な功力を蔵している。これと同じようにこの菩薩はすべての衆生を救済する、偉大な功力を蔵すること土地のようであるからその名が起ったと仏典に記されている。そしてこの功徳を表わすために、地獄・餓鬼・修羅・人・天の六道に姿を示現し、永久に苦しむこれら六道の衆生を救済しようと願を発した。われわれ人間とすれば、貪欲、嫉妬、瞋恚、慳悋、邪癡、憍慢、睡眠などの悪の一切が常に生ずるが、その時にこの菩薩の名を呼び一心に帰依すればその苦から解脱出来、容易に涅槃に安住し楽を得ることが可能である。
地蔵は現世利益のほかに死んだ人をも救済すると信仰され、平安時代以降各宗派を超越して僧俗男女とも強く信仰した菩薩である。民衆に非常に親しまれ、なつかしまれ、この菩薩を本尊とした寺院は全国に無数にあるのみならず、村の入口、町の角、田畑の隅、峠の頂上など、我々の生活に溶け込んでいる。
修験道においても、地蔵は大地の信仰に根ざす仏で、衆生の六道の苦を救い浄土に導くとされ、地獄の守り神であり、流派を超えて崇拝対称とされており、まれには本尊として用いることがあるが、ほとんどは脇侍として用いられることが多い。
行平が属していた「彦山が記録に登場するのは嘉保元年(1094)で、彦山衆徒が太宰府に強訴し、大弐藤原長房を逐電させたと本朝世紀にある。また養和元年(1181)には後白河法皇が彦山を京都の新熊野の荘園に加えられている。このことを機にして彦山は熊野と関係を持つようになっている。行平が所属していた時代の彦山は、熊野との関係の濃い天台修験の一大道場であった。行平の作刀に見られる彫物から、この天台修験との関わりが把握できる。
高松宮家伝来の太刀(東京国立博物館蔵:重要文化財)の毘沙門種子と尊像についてみると、この尊像は役行者あるいは不動明王などといわれているが、尊像上に毘沙門種子があることから毘沙門天像とみるの妥当であろう。
「古今伝授の太刀」(永青文庫像:国宝)については、表に上から不動、観音、裏に毘沙門天の三種子がみられるが、この三種子が行平の作刀にみられることは、行平が天台系修験の一員であることを示す好箇の資料である。なぜならば「最澄が比叡山を開発してのち、天台修験を確立鼓吹した円仁が現われ、比叡山横川に首楞厳院を創立し、そこに観音と毘沙門を祀ったことから、首楞厳院に安置された観音と毘沙門は山林抖擻の行者の護身の仏尊として、のちに良源により加えられた不動明王と共に祀られた」のである。行平が天下に名だたる天台修験道場である彦山の僧籍に身を置く修験たることが、この三種子より窺うことが出来るのである。
名物:地蔵行平は明暦の大火で焼失してしまったので現存しないが、他に2振の豊後行平作の地蔵菩薩の彫物がある「地蔵行平」の太刀が現存する。
(画像:上)
・太刀 銘 豊後国行平作 東京国立博物館蔵(重要文化財)
長さ:2尺6寸5分(80.29cm)、6分(1.81cm)、
有栖川宮家から高松宮家に伝来
手に宝珠をもっているところから地蔵菩薩とされる。他説に不動明王、役の行者、毘沙門天ともいわれている。地蔵菩薩の上にある梵字:バイは毘沙門天をあらわすので、梵字と彫物の相関からすると毘沙門天の可能性も一理ある。なお行平の彫物は異形のものも多く判別はむずかしい。
(画像:下)
・太刀 銘 行平作 名古屋市博物館蔵(重要文化財)
長さ:2尺6寸3分(79.7cm)
徳川将軍家伝来
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
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長さ | 2尺5寸6分(77.6cm) |