数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)

  • 指定:重要文化財
  • 太刀 銘 恒次 (名物:数珠丸恒次)
  • 本興寺蔵
  • 長さ 2尺7寸6分(83.9cm)
  • 反り 9分9厘(3.0cm)

数珠丸恒次は備中青江恒次作の太刀で、「享保名物帳」に所載する。「三日月宗近」・「鬼丸国綱」・「童子切安綱」・「大典太光世」と並び天下五剣と称せられている。「数珠丸」とは書かずに「珠数丸」が正しいともいう。「享保名物帳」の享保八年本に、「法主大上人之御太刀成ト云」とあるとおりに、日蓮聖人遺愛という。文永11年(1274)、聖人が初めて身延山に登るとき、ある大檀那が、山中には盗賊が多いから、護身のため、と寄進した。聖人はそれに数珠をかけ、杖について登山したという。
身延山の仏堂を寄進したのが、波木井実長であるため、恒次寄進の大檀那を波木井実長とする説がある。しかし、聖人が身延山に入る三か月前、弟子の北条弥源太が大小二振りを寄進したという。それに対する聖人の礼状に、「あまくに、或は鬼きり、或はやつるぎ、異朝には、かむしやう・ばくやが剣に、争かことなるべきや」とある。おそらくその大刀が数珠丸であろう。
江戸期になって、本阿弥光甫は日蓮宗の信者だったので、数珠丸恒次の拵えを誂えて、蓮花を紋にした四分一すり剥がしの金具のついたものにして奉納した。これが身延山を出て、紀州徳川家に入った時期については、寛永(1624)末年、とする推論がある。紀州頼宣の生母:お万の方が、身延山の日遠の大信者だったとは言え、寺宝三種の一である。数珠丸を紀州家に渡したとは考えにくい。
それに本阿弥光甫が拵えを寄進したとき、もし紀州家にあったら、その後の「享保名物帳」でも、所蔵者は紀州家となっているはずである。すると、考えられるのは明治初年、廃仏毀釈の嵐が吹きまくった時、重宝の安否が気遣われたので、紀州家に持ち込まれたのか、引き取られたのか、そのどちらかであろう。
それを大正9年、杉原祥造翁が入手し、兵庫県尼崎市の日蓮宗:本興寺に納めた。大正11年、国宝に指定され、戦後は重要文化財となる。

名物帳には「身延山久遠寺 数珠丸恒次 銘有 長さ弐尺七寸七分 無代 宝物の太刀也。由緒不知。後の恒次也。光甫物数寄之拵蓮華を紋にして四分一摺はがし也」
諸家名剣集には「私記ニ曰、昔日蓮上人甲州身延山開基之節山中盗賊有之故自身衛護之為にとて大檀那某此太刀名剣成る故に上人に寄附す。上人登山之時杖に突き登山有けるとなり。故に今において当山の宝物と成る。」

形状は、鎬造、庵棟、細身で腰反高く、小峰、踏張りがある。鍛えは、小板目、肌よくつみ、乱れ映り立ち地沸つく。刃文は、直刃に小足入り、匂口やや沈みごころに小沸つく。帽子は、細くかけ出す。茎は、生ぶ、先栗尻、鑢目切、目釘孔一、佩表、鎺下棟寄りにやや太鏨の二字銘。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
#数珠丸恒次
 

(法量)
長さ 2尺7寸6分(83.9cm)
反り 9分9厘(3.0cm)
元幅 1寸2厘(3.1cm)
先幅 5分9厘(1.8cm)
茎長さ 7寸9分5厘(24.1cm)
茎反り 0.5厘(0.5cm)

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