謙信景光
謙信景光(けんしんかげみつ)
- 指定:国宝
- 短刀 銘 備州長船住景光 元亨三年三月日 (号:謙信景光)
- 埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵
- 長さ 9寸3分5厘(28.3cm)
- 反り 僅か
「謙信景光」は上杉謙信の指料で、一文字極めの無銘の刀(重要美術品)とともに常に帯刀していたという由緒あるもので、のちに「上杉家御手選三十五腰」の一振にも数えられており、いつの頃からか「謙信景光」の刀号が生まれ、広く人口に膾炙している。
「上杉家刀剣台帳」の「乾十二号(乾12)」に記載され、こちらでは「謙信景光」の刀号についての記述はみられないものの、「謙信公差料 乾第十一号一文字刀と御揃」と記されており、一文字の刀(乾11)とともに上杉謙信が揃いとして愛用していたことが窺い知れる。
長船景光に山城の粟田口吉光・来国俊、相州の新藤五国光、越中の則重などと並んで、備前における短刀の名人である。景光の作品は少なくなく、太刀も名作も多いが、長船物としては短刀の名品が多く、中でも「謙信景光」は景光がもっとも得意とした片落互の目を焼いた典型であり、美しく澄んだ地肌に冴えわたる片落互の目を焼いた傑作である。
刀身に施された「秩父大菩薩」の神号の文字の陰刻は、他に正中二年紀(1325)のある景光・景政との合作の太刀(御物)にも見られる。御物太刀の銘文からは秩父郡を本拠としていた武蔵武士丹党大河原氏のが新たな領地として移住した播磨国三方西に景光らを招いて作刀させたことが知られ、「謙信景光」もそれと一連のものとみられ、この二振は大河原氏の故郷の秩父神社に同氏によって奉納されたものといわれている。なお、「謙信景光」と御物太刀にみられる「秩父大菩薩」の神号の文字は同一であるのに対して、梵字は「謙信景光」が阿弥陀如来、御物太刀は毘沙門天(多聞天)と相異しているのは謎となっている。その後、戦国時代のどさくさでそれぞれ神社から散逸し、「謙信景光」は上杉謙信の所有に帰するところになった。
平造、庵棟、身幅やや広めに寸延びとなり、僅かに反りつく。鍛えは、小板目肌よく約み、地沸細かにつき、直ぐ映り立つ。刃文は、片落ち互の目が揃い、足・葉入り、匂口が締まりごころに小沸つき冴える。帽子は、乱れ込んで深く、小丸ごころに返る。彫物は、表に「秩父大菩薩」の神号の文字、裏に梵字(阿弥陀如来)をともに陰刻する。茎は生ぶ、振袖風に反りつき、先栗尻、鑢目筋違、目釘孔二、表中央に「備州長船住景光」、裏に「元亨三年三月日」の銘がある。
附帯する黒漆塗鞘小サ刀拵は、謙信当時の作であり、鞘は黒漆塗り、柄は黒漆鮫を着せ上を紺糸(組紐)で菱巻(今日は藍革巻に直している)したもので、鐔は赤銅魚子地に秋草文を高彫り・色絵にし、表の小柄は鐔同様に仕立て、裏の小柄は銀の波地に金枝菊文を高彫りにしている。
鎺には烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の梵字が刻されている。烏枢沙摩明王は本来一切の悪不浄を消尽するとされ一般には「便所を守る守」といわれるが、天台系では五大明王のうち金剛夜叉明王のかわりにこの烏枢沙摩明王を用いることもあり、降伏を願ってのものであろう。
通説では「謙信景光」(乾12)は上杉謙信が「姫鶴一文字」の太刀と揃いで常に帯刀していたといわれていたが、近年の研究では「上杉家刀剣台帳」によって、従来の説は誤諺であることが判明した。すなわち「謙信景光」と揃いの大は同じ一文字でも重要美術品「刀 無銘 伝一文字 長さ二尺八分」(昭和12年12月24日認定)(乾11)であり、備考には「謙信公差料 代々御堂御参詣の節の御差料」と記されている。一文字の刀に附帯する黒漆塗鞘打刀拵も製作年代については「謙信景光」の小サ刀拵と同様に謙信当時のものといわれている。
上杉家の蔵刀は上杉家刀剣台帳に所載し、蔵刀番号は「乾坤」の一字と数字が付されている。
乾十一号(乾11)刀 無銘 伝一文字 (重要美術品)
「謙信公差料 代々御堂御参詣の節の御差料」
乾十二号(乾12)短刀 備州長船住景光 元亨三年三月日(号:謙信景光)(国宝)
「謙信公差料 乾第十一号一文字刀と御揃」
蔵刀番号が連番となっている点からみても、この二振が揃いであったことを物語っている。
因みに「姫鶴一文字」の蔵番は乾三号(乾3)となっている。
「上杉家刀剣台帳」
乾十二号 銘文等:短刀 備州長船住景光 元亨三年三月日 号銘等:(記載なし) 刃長:九寸三分 外装:脇指拵 景勝公御手選:三十五腰の内か
指定月日等:重要美術品(腰刀拵附) 昭和十二年十二月二十四日、重要文化財(小サ刀拵附) 昭和二十七年七月十九日、国宝(小サ刀拵附) 昭和三十一年六月二十八日 備考:謙信公差料 乾第十一号一文字刀と御揃
乾第拾弐号
一 景光脇差 白鞘袋入御拵袋入紺純子
銘 備州長船住景光 元亨三年三月日
長 九寸三分 表秩父大菩薩「裏梵字」
拵 二重鎺上貝赤銅下貝金涅(縦横4本ずつの九字紋図)□□□(梵字)切羽金無垢縁赤銅魶子金玉縁彫菊ニ薄頭角目貫赤銅彫粟ニ水仙金色絵目釘天金鍔銘吉岡明重 秋野彫小柄銀無垢彫枝菊小柄地板赤銅魶子菊ニ薄裏金哺鵐目金無垢鞘黒下緒茶袋赤純子
御由緒 謙信公御差料、乾第十一号一文字ノ御刀ト御揃、
『昭和八年八月廿四日、本研ノ為メ東京別邸へ送付、(印)』
刀剣五番桐塗箪笥 壱ノ段
「秩父明神」は、埼玉県秩父市大字大宮にある神社で、崇神天皇の時、秩父国がおかれ、その国造になった知々夫彦命と、それより十世の祖:八意志兼命を祀る。「延喜式」にも載った古社で、平良文は平将門討伐のさい、妙見宮を礼拝、その守護によって、戦勝を得た、という伝承があるので、良文の孫:将常が大宮の領主となり、子孫がこの地に繁栄すると、妙見菩薩を秩父明神に合祀した。そのため領主の信仰する妙見菩薩が主体となり、秩父妙見社または大宮妙見社と呼ばれるようになった。長船景光作の短刀「謙信景光」元亨3年(1323)、正中2年紀(1325)のある景光・景政合作の太刀(御物)に「秩父大菩薩」と彫ったものがある。「大菩薩」とは妙見菩薩のことである。しかし、明治になると妙見菩薩は分離され、秩父神社だけになった。
「謙信景光」との関連が窺われる太刀二振の銘文は下記の通りとなる。
太刀(御物) 正中2年(1325) 宮内庁蔵
願主武蔵国秩父郡大河原入道沙弥蔵蓮同左衛門尉丹治朝臣時基於播磨国宍粟郡三方西造之
作者 備前国長船住左兵衛尉景光 信士三郎景政 正中二年七月日
彫物:「秩父大菩薩」、梵字(毘沙門天)
太刀(国宝) 嘉暦4年(1329) 埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵
広峰山御剣願主武蔵国秩父郡住大河原左衛門尉丹治時基於播磨国宍粟郡三方西造進之
備前国長船住左兵衛尉景光 信士三郎景政 嘉暦二二年己巳七月日
武蔵の国秩父郡の豪族で、播磨国に任ぜられていたと思われる丹治時基及びその父:沙弥蔵蓮の父子が景光・景政の両工を備前国長船から召し寄せて、播磨国宍粟郡三方の西に於いて鍛造せしめ、正中2年(1325)、郷国秩父神社に奉納したものとなる。
これから4年おくれて嘉暦4年(1329)には同じく景光・景政に命じて播磨国三方の西で鍛刀させた太刀を播磨国広峯神社に奉納している。この時は沙弥蔵蓮は死没したものであろうか、丹治時基のみの寄進銘がある。
銘文にある丹治時基なる人物が、武蔵七党の一つである丹党(中村一族)の嫡流であることは、丹党系図や武蔵武士などの文中から明確であるが、当時の任地及び地位については祥らかではない。ただ「秩父妙見造営次第」という一連の文書中に、この時基の孫に当たる中村弥次郎丹治行郷が、秩父妙見社の造営責任者であったことが書かれており、この丹治行郷が秩父妙見社を完成させたのが、正和3年(1314)3月18日であり、その後、間もなく、元亨4年(1324)10月、播磨国の地頭となり任地に赴いたと記されている。丹治時基が孫の行郷の秩父妙見社の造営責任者としての活躍を賞で完成も間近くその成功をたたえ一門の名誉を祝さんものと、景光・景政に依頼し秩父妙見社に奉納したものといわれている。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
#謙信景光
(法量) | |
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長さ | 9寸3分5厘(28.3cm) |
反り | 僅か |
元幅 | 8分5厘(2.6cm) |
元重ね | 2分2厘(0.6cm) |
先重ね | 1分8厘(0.55cm) |
茎長さ | 3寸6分3厘(11.0cm) |
茎反り | 7厘 (0.2cm) |