金地螺鈿毛抜形太刀
金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)
- 指定:国宝
- 金地螺鈿毛抜形太刀
- 春日大社蔵
金地螺鈿毛抜形太刀は、衛府の官人が佩用した衛府太刀で、刀身の茎に毛抜の形を透かし、また柄頭には毛抜緒の花形座を地透しにして残し、鉄地の部分に鍍金の板金を伏せて鍍銀の冑金・覆輪を懸け、その他の金具類はすべて金剛魚々子地に蝶・鳥を配した宝相華唐草文を鋤彫りにしている。
鞘は金沃懸地とし、全面に螺鈿で竹林中で雀を追う斑猫を表しているが、螺鈿には細部を刀刻し、また竹の朽葉、雀と猫の眼や斑部分には螺鈿を切り透かして縁・白色の瑠璃を嵌装し、黒漆を填じて、色調に変化を与えている。また前後の足金物の櫓金の鐶には、紫韋の表に緋韋を裏にしてたたみ、伏せ組みを施した足革を引き通し打ち返して、七つ金で留めてある。なお刀身は錆びて抜けないが、X線写真によると、鋒は魳鋒という。
鞘の細く長い画面に、和様の写生的図様を全面に巧みに表現した豪華精緻なもので、刀装具としてのみならず、漆芸史のうえで沃懸地螺鈿の絶品としても極めて価値が高いといわれている。総長:96.3cm,柄長:18.2cm,鞘長:77.0cm
毛抜形太刀とは、太刀の中心に柄をつけず、柄も刀身と同じく、いわゆる共柄にし、それに毛抜形の透しを施したものをいう。鐔や鎺は切先のほうから嵌め、それを固定するため、刃区ぎわに小孔をあけ、鎺にあけた小孔との間に目釘を挿した。これは衛府の官人が佩用したので衛府太刀、野外での兵仗であるため野太刀・野剣、その外装からみて平鞘太刀・革緒太刀とも呼ばれた。平安期から鎌倉初期にかけて用いられたが、古墳の出土刀にすでに中心に毛抜形を透したものがある。蕨手刀にも柄に透しがあるので、それとの関連が注目されているが、白川法皇が天治元年(1124)10月、高野山御幸のさい、左衛門督通季が俘囚の野剣を帯びてきたのを、権中納言実行が「誠ニ是レ法度ノ外ト謂ウ可シ」と厳しく非難している。
この事実から見ても、また公家のプライドから言っても、蕨手刀の模倣をしたとは考えられない。おそらく当時、鮫皮の入手が困難だったので、鮫皮を使わないで荘重に見え、しかも重量を減じられるものとして、透しが考案されたといわれている。その狙いは当たって、平重盛や源頼朝のような武人も、衣冠束帯のときは佩用するようになった。伝藤原隆信筆の両人の肖像画にも描かれている。中心が共柄になっているため、切った場合、手に響く。それを緩和するため、柄の透しを入れてみたが、やはり響く。それで鎌倉期になると、透し入りの毛抜形太刀は実用の座をおろされ、神社の奉納刀か、さもなくば装飾用の競馬太刀にしか用いられなくなった。天慶の乱で武名をあげた藤原秀郷の佩刀と伝えられる伊勢徴古館の太刀は、もっとも完備かつ精巧な毛抜形太刀の標本である。毛抜形透しの周囲には、七子地に蝶と唐草を高彫りにした銀の板が蝋づけになっている。透しの周りを囲んでいる銀の覆輪には矢疵、鐔には刀疵がある。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)