狐ヶ崎為次
狐ヶ崎為次(きつねがさきためつぐ)
- 指定:国宝
- 太刀 銘 為次 (号:狐ヶ崎)
- 吉川史料館蔵
- 長さ 2尺6寸(78.8cm)
- 反り 1寸1分1厘(3.4cm)
狐ヶ崎為次は備中青江為次作の太刀で吉香友兼が梶原景茂を斬ったと伝える。梶原景時が三浦義村らの諸将に弾劾され、京都に逃げていく途中、正治2年(1200)正月20日、駿州阿倍郡吉香(静岡県清水市吉川の北方)、狐ヶ崎において、景時の三男:三郎兵衛尉景茂を、吉香の領主:吉香小次郎友兼が、この太刀をもって討ち取ったため、「狐ヶ崎為次」と命名された。友兼もそのとき重傷をおい、翌日落命した。芸州の名家:吉川家はその嫡流であるため、狐ヶ崎為次は今日まで同家に伝来し、国宝に指定されている。
形状は、鎬造、庵棟、身幅広く、重ね厚く、腰反り高く踏張りがあり、先反りも強くつき、猪首鋒の太刀である。鍛えは小板目に小杢目交じりよくつみ、地沸細かにつき、地斑(澄肌)交じる。刃文は、表裏とも上半は焼幅広く直刃調となり丁子がこまかに交じり、小足しきりに入る。下半は焼幅狭く、小乱れ、小丁字、小互の目交じり、匂口冴えて沸が煙るように細かくつく。帽子は小丸風に沸崩れる。茎は生ぶ、先ほとんど切り、鑢目大筋違、目釘孔二、佩裏の下方の棟寄りに「為次」と小振りの銘がある。
為次は備中国古青江派守次の弟子と伝える鎌倉時代初期の刀工である。狐ヶ崎為次は為次作中第一の名作であり、保存が極めてよい。姿は腰反りが高く堂々としており、鍛えはいわゆる澄肌と称される黒い肌の地斑を交じえ、直刃に小乱れ、小丁字を交えた落ち着きある作風を示している。
附帯する黒漆太刀拵は柄・鞘ともに薄革で包み、その上を黒漆で塗り固め、山金の金具を装着して、柄と鞘の渡りを革で無造作に菱巻し、表を漆塗りしている。金具は地に魚々子を蒔き竹文を彫り上げ、また鐔は鉄板を山金で包んだ角丸形の太刀鐔となる。総体に肉取りは薄く引き締まった鎌倉時代前期の優れた拵として貴重である。
岩国藩吉川家は毛利元就の次男:吉川元春の子広家が関ヶ原役後、岩国三万石(のち六万石)城主となった。吉川家は、毛利元就の三人の子、嫡男隆元・次男元春・三男小早川隆景のうちの元春を家祖とする。元就のその遺言状に、三本の矢にたとえ、三人の子の一致団結を強く求めた。広家は天正19年(1591)、豊臣秀吉より出雲富田十四万石の城主とされた。関ヶ原役で、本家毛利輝元が敗北するや、東軍徳川方に味方した広家は、本家のために弁明しようやく毛利家を安泰ならしめたのだった。最初広家に、周防・長門二国があたえられる予定だったという。岩国藩主は、二代広正から正式には大名でなく陪臣とされたが、幕府での待遇は諸侯に並ぶものであった。慶応4年(1868)になって、正式に諸侯に列している。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 2尺6寸(78.8cm) |
反り | 1寸1分1厘(3.4cm) |
元幅 | 1寸5分(3.2cm) |
先幅 | 7分2厘(2.2cm) |
鋒長さ | 1寸8分(3.3cm) |
茎長さ | 8分2厘(2.5cm) |
茎反り | 2分6厘(0.8cm) |