高麗鶴光忠(こまづるみつただ)

  • 指定:重要文化財
  • 刀 (金粉銘) 光忠 高麗鶴 小早川隆景 文禄之役佩用(号:高麗鶴)
  • 長さ 2尺4寸6分(74.5cm)

 

高麗鶴光忠は、備前光忠作の刀で「高麗鶴」の異名があり、中心には「光忠高麗鶴」「小早川隆景文禄之役佩用」と金粉銘で記されている。
小早川隆景は毛利元就の三男で、兄に毛利隆元、吉川元春がいる。のちに隆元の子:輝元の臣下として仕え毛利家をささえた。文禄元年(1592)、朝鮮出兵に出陣する。高麗鶴光忠は、隆景が老齢に鞭を打って、朝鮮半島に渡海した時の佩刀であったことをその銘文よりも伝えている。

しかし、右翼の大物であった杉山茂丸(昭和10年没)が、もとは畠田守家の在銘であったが中心の先に磨れてわずかに判読ができるほどであったのを良いことに、後世になってから金粉銘を施させたという説もある。昭和16年、無銘光忠として国宝に指定される。

刃長は2尺4寸6分(74.5cm)、大磨上ながら猪首鋒に結び、なお鎌倉中期時代の豪壮なる姿をのこしている。地鉄は、板目がつんで、乱映りがたち、刃文は、丁子乱れに蛙子丁字を交えて華やかとなる。

小早川隆景は父:毛利元就から知謀を受け継ぎ、兄:吉川元治とともに毛利家を守り立てた。のちには豊臣秀吉の信頼を得て、豊臣五大老のひとりに任ぜられた。元就の三男で、跡継ぎがいなかった竹原小早川家の養子に入って家督を継ぎ、小早川正平の娘を妻に迎えて婿となり、本家の沼田小早川家を相続した。おもに山陽方面の攻略を担当し、水軍を率いて活躍する。厳島の戦いでは村上水軍を味方に引き入れ、勝利に貢献した。元就没後は元春とともに毛利両川としてとして甥の輝元を支援した。秀吉に従ったのちは四国攻めで戦功をあげ、伊予三十五万石を得た。そして秀吉が九州を平定すると、筑前一国と筑後・肥前各二郡の三十七万石に転封となった。朝鮮の役では老齢をおして渡海し、碧蹄館の戦いで立花宗茂とともに明の大軍を破った。秀吉に跡継ぎの秀頼が生まれたとき、秀吉は養子の秀秋を毛利家の養子にして、あとを継がせようとした。それを知った隆景は毛利家の血筋が途絶えるのを恐れ、実子のいない自分の養子に迎え、家督を継がせた。その後まもなくして病死した。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺4寸6分(74.5cm)

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