九鬼正宗(くきまさむね)

  • 指定:国宝
  • 短刀 無銘 相州正宗 (名物:九鬼正宗)
  • 林原美術館蔵
  • 長さ 8寸1分8厘(24.8cm)
  • 反り 僅かに内反り

九鬼正宗は「享保名物帳」に所載する短刀で、初め毛利元就の三男の小早川隆景が所持し、志摩国鳥羽城主:九鬼守隆の弟:五郎八は能が上手だった。慶長年間(1596)の初め、山城国の伏見城でみごとな舞を披露したのを賞して、無銘の短刀を与えた。その時点ではまだ相州正宗の折紙がついていなかったので、気安く与えたのであろう。五郎八は関ヶ原の役には、父:九鬼嘉隆と行動をともにして石田方の西軍につき敗北したので、慶長5年(1600)10月13日、前日の12日に家臣の豊田五郎右衛門の独断による勧めにより切腹してしまった父:九鬼嘉隆のあとを追って自決した。五郎八の死後に短刀は兄:守隆の有に帰した。守隆はこれを本阿弥家にやって鑑定を求めたところ、相州正宗作の極めとなり、代金子三百枚の折紙がついたので、さぞや嬉しかったのであろう、埋忠寿斎に鎺を作らせた。
今でもその時の金無垢二重台付鎺がついている。上貝の台底に「うめただ 寿斎 彦一入」と針書銘が切ってある。なお、押形もとり、埋忠刀譜に「竹中伊豆殿 九鬼長門殿 寿斎かなく仕候」と記入しておいた。竹中伊豆守とは豊後国国東郡高田、一万石の領主で、名を重利といった。この人の名が、何故ここに出てくるのか、おそらく短刀の次に載せている刀の説明を、後世の人が筆者する場合、誤って九鬼正宗のほうに入れてしまったものであろう。
鞘書には「九鬼正宗 長サ八寸弐分台付なし 享保七年寅十月 久右衛門䂰仕ル」
九鬼守隆は新装成った正宗を、徳川家康に献上した。家康はそれを紀州藩主の徳川頼宣に与えた。その後、三男の徳川頼純に譲渡され支藩の伊予西条の松平家に伝わった。戦後の新国宝に指定されている。

名物帳には、「紀伊国殿  九鬼(正宗) 無銘 長さ八寸壱分半 代金参百枚
裏棒樋、九鬼長門守殿所持。家康公へ上る。紀伊国殿へ御譲。

形状は、平造、三つ棟(中筋広し)、身幅はほぼ尋常、重ね厚目、僅かに内反りつく。鍛えは、やや大模様の板目と小模様の板目が交じり、僅かに流れ肌あり、総体に肌立ちごころなれでもよく錬れ、地沸を厚く敷き、地景を著しく織り成し、かねよく冴える。また表裏ともに区際より水影状に映りが出る。刃文は、元より中程辺まではやや焼低く小のたれに小互の目を交えて穏やかな態を示し、その上は焼高くのたれや互の目がやや大模様となり、総じて沸つよくつき、荒目の輝く沸を交え、匂深で、金筋鋭く入り、砂流しかかり、処々沸が地に零れて凝り湯走りを形成し、匂口明るく冴え、表裏ともに区際を焼込む。帽子は掃き掛けて金筋入り、火焔風となって沸崩れ、また返りを深く焼き下げて棟焼に繋がる。裏に腰樋を彫る。茎は生ぶ、棟は角で刃方は小肉つく、先剣形、鑢目勝手下がり、目釘孔二。
金梨子地塗葵紋金銀平散鞘合口短刀拵が附帯する。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 8寸1分8厘(24.8cm)
反り 僅かに内反り
元幅 7分6厘(2.3cm)
元重ね 2分弱(0.6cm)
茎長さ 3寸2分7厘(9.9cm)
茎反り 極く僅か

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