面影(おもかげ)

  • 大太刀 銘 国行 (号:面影)
  • 長さ 3尺3寸(100.0cm)

 
長崎勘解由左衛門為基の佩刀
面影丸(おもかげまる)とも呼ばれ、為基は北条高時の武将で、元弘3年(1333)5月、相模国鎌倉に攻め入った新田義貞の軍を、面影の太刀を手に取ってさんざんに斬りまくったのち、行方をくらました。面影は来国行が百日間、精進して鍛え上げた三尺三寸(約100cm)の大太刀で、これに対して為基は百貫文の報酬を与えたという。当時の貫文は貨幣ではなく所領の土地のことである。しかし、来国行と為基ではその活躍した時代が同一ではないから、この物語は創作でなければならない。
面影の刃長について、古剣書はすべて三尺三寸となっているが、「太平記」の異本では三尺四寸(約103.0cm)、または四尺三寸(約130.3cm)となったものがある。刀号である面影という由来については、初め来国行は鉋丸(かんなまる)と面影の二振を一緒に作った。鉋丸とはその姿形といった面影を瓜二つのように等しかったので、こちらの方を面影と名づけた。のちに鉋丸の方は北条高時に献上されたが、面影の方は最後までその手許に持っていた。面影で大活劇を演じたあと、所在が行方知れずになった、というが、室町末期になると、小弓の御所、つまり足利義明(古河公方)の愛刀になっていたという。
義明が天文7年(1538)10月、鴻台で討死したときの出で立ちは、来国行三尺三寸(約100.0cm)、面影の太刀に、二尺七寸(約81.8cm)赤銅造りの太刀を佩きそえ、法城寺の大薙刀をかい込んでいた、という。江戸期になると、池田輝政がそれを入手した。刃長は三尺三寸(約100.0cm)のままだったが、輝政の三男:忠雄は自分の差料にするため、寛永(1624)のころに面影を磨り上げてしまった。
忠雄の曽孫:吉泰は因州国鳥取城主だったが、鳥取城が享保5年(1720)4月朔日に焼失したとき、面影は切刃貞宗などの名刀とともに焼けてしまった。それで幕府のお抱え研師:角野寿見に、焼き直しの世話を頼んだ。しかし寿見が面影の刀身に砥石に当てて見たところ、刃文は消えていなかったので、研ぎ上げて池田家に納めた。これは寿見の手記にあるから、事実であろうが、鳥取城はその後にも再び焼けてしまったので、面影はついに姿を消した。

木曽義仲の太刀
豊前神息の子、または豊後行平の弟子といわれる安則の作で、木曽義仲の佩刀と伝えられる。

木村常陸介重茲の太刀
徳川家康が豊臣秀吉に献上したものを、関白:豊臣秀次に譲った。秀次はそれを重臣:木村常陸介重茲に与えた。面影の太刀は鞘から抜くと、人の顔がその刀身にありありと鏡のように映ることより、面影と名付けられた名刀だった。文禄4年(1595)、秀次が高野山で自尽したとき、常陸介の妻は懐妊していた。それに、生まれた子がもし男児であらば、面影を与えよ、と遺言して、常陸介も追腹を切った。妻は塙団右衛門を頼ってゆき、生みおとしたのが、木村重成だった、という。しかし重成が成人後の佩刀として、面影は登場して来ない。

奥州会津藩主松平家の枕刀の異名
初代:三善長道の作で、会津藩主松平家が参勤交替のおりのある夜、藩主にこの刀が夢想の告げで、火事を予告したため、事無きを得たという伝説から名づけたものという。
刃長二尺三寸六分(約71.5cm)、反り四分(約1.2cm) 庵棟。鎬は高く柾目肌。地鉄は板目肌、地沸えつく。刃文は直刃に焼き出し、上は大互の目乱れ、足入り、乱れの谷に砂流しかかる。鋩子は上り小丸、返りは深い。本刀は古くから「面影」という異名がついていたので「面影長道」と命名され「昭和名物」に指定された。(昭和45年月30日審査)
刀 銘「陸奥大掾三善長道 (金象嵌)延宝三年八月十一日 参ツ胴截断 山野勘十郎久英(花押)」

野田繁慶の中心に、「面影」とある金象嵌、由来などについてはは不明である。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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