大包平(おおかねひら)

  • 指定:国宝
  • 太刀 銘 備前国包平作 (名物:大包平)
  • 東京国立博物館蔵
  • 長さ 2尺9寸4分5厘(89.23cm)
  • 反り 1寸1分5厘(3.48cm)

 

 

大包平は古備前派包平作の太刀で「享保名物帳」に所載する。包平は助平・高平と並び、古来「備前の三平」と称せられて名高い。「名物帳」にただ「寸長き故、名付く」とだけあるのは、本阿弥家では実見したものがいなかったからである。と言うのは、「名物控」を見ると、古庄兵衛という者が、元禄5年(1692)6月10日、池田家で大包平を拝見した時の話として、刃長などを記録しているだけだからである。備前国岡山藩主:池田家の所伝によれば、池田三左衛門輝政の佩刀で、毎年の正月に行われる具足始めには、甲冑とともにこれを飾るならわしだった。昭和42年、池田家から国が6,500万円の価格で買い上げた。国宝に指定され東京国立博物館に収蔵されている。

池田新太郎光政が藩主となったのは、わずか3歳の時だった。それで藩政は叔父にあたる池田宮内少輔忠雄が後見となり、家老の日置豊前が運営していた。なお、幕府からは加藤甲斐守が目付役として、派遣されていた。ある日、宮内少輔と甲斐守のまえに豊前が呼び出され、公私にわたって私曲がある、といって糾弾された。しかし豊前は一々、明快に弁明したあと、こういう言われなき糾弾をなされたのは、宮内少輔殿が「大包平」を借用されたいご希望なのに、お貸ししないからであろう。しかし、あれは殿が成人なされた後はいざ知らず、それ以前はお貸しできませぬ、と断乎ことわった、という話がある。
加藤甲斐守納泰はもっと時代があとで、目付役として派遣されたのは、甲斐守の曾祖父:遠江守光直であり、派遣の時期も、光政が岡山に転封になった時、つまり24歳だった。しかし、宮内少輔はそれより2ヶ月前に死去している。時間的な誤差はあるが、池田家における大包平への尊崇ぶりを示す良い挿話である。
しかし、新太郎光政は子息:備後守(伊予守の誤り)に対して、伝来の大包平が何になる、藩中の刀を総動員すれば、恐るる敵刃いまいものを、大名の身として、刀一本を頼りにするとは情けない話だ、とつねづね訓戒していたという。

名物帳には「松平大炊頭殿 備前池田家(池田継政) 大包平 銘有 長さ弐尺九寸四分 無代 表裏樋、寸長き故名付(く)。」

大包平は健全無比の大作で包平作中にあってその白眉といわれている。90cmに近い長さ、3.3cmを超える深い反りを持った大太刀を、一点のむらもなく鍛え上げた力量は驚くべきものである。それ故に大包平の号が名付けられたという。今日、刀剣界においてこの太刀を第一等の太刀と高く評価されている。光山押形、享保名物帳に所載する。
長さ2尺9寸4分5厘(89.23cm)、反り1寸1分5厘(3.48cm)、形状は、鎬造、腰反り高く踏張りがあり、鋒は猪首となる。鍛えは、小板目肌がつみ、地沸つき、地景交じり、足・葉入り匂深く、小沸つく。帽子は、乱れ込んで浅く返り、二重刃となる。彫物は、表裏に棒樋を掻き流す。茎は、生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔二。

近年では、2009年に米国ニューヨークのメトロポリタン美術館で開催された「Art of the Samurai」に出品された。日本の刀剣・甲冑を中心とした国宝34点、重要文化財64点、重要美術品6点、名物9点を含むの中でも、日本刀の最高傑作として知られる名物大包平は、最高峰の作品としてその雄大な太刀姿は海外でも高い評価を得た。他に主立つものでは、厚藤四郎、鳴狐、へし切長谷部などがあった。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
#大包平

(法量)
長さ 2尺9寸4分5厘(89.23cm)
反り 1寸1分5厘(3.48cm)
元幅 1寸2分2厘(3.7cm)
先幅 8分4厘弱(2.55cm)
元重ね 2分5厘弱(0.75cm)
先重ね 2分弱(0.6cm)
鋒長さ 1寸2分2厘(3.7cm)
茎長さ 7寸7分(23.33m)
茎反り 1分強(0.31cm)

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