大典太光世(おおてんたみつよ)

  • 指定:国宝
  • 太刀 銘 光世作 (名物:大典太)
  • 前田育徳会蔵
  • 長さ 2尺1寸8分(66.1cm)
  • 反り 8分9厘(2.7cm)

大典太光世は筑後国三池住伝太光世作の太刀で「享保名物帳」に所載する。「三日月宗近」・「鬼丸国綱」・「数珠丸恒次」・「童子切安綱」と並び天下五剣と称せられている。三池典太光世は筑後国の三池の刀工で「てんた」と称し、それには伝太、伝多、転多、転太、典太などの字をあてている。加州前田家には三池典太光世の作が、太刀二振り、または太刀と刀と二振り、あって、こちらが長かったので、「大典太」と呼ばれ、もう一振は「小典太」という。大典太光世は足利尊氏よりの伝来で「二つ銘則宗」「鬼丸国綱」とともに、足利三宝剣の一つだったが、足利義昭のとき豊臣秀吉に献上した。その時期は天正16年(1588)頃で、秀吉から一万石を与えられた返礼として献上したものという。それから間もなく秀吉が伏見城に移ると、毎晩秀吉の話し相手として、加藤清正や黒田長政らが詰めていた。
彼らが千畳敷きの廊下を深夜通ると、何者かが刀の小尻をつかんで引くので、通れない。無理せず、そのまま引き返すと、別に異状ははなかった。その話を前田利家にしたところ、「そんなバカな話が-、臆しているからでござろう」と一笑に付した。それでは前田殿も行って見なされ。行かいでか、と言うことになった。加藤清正が、「では、行った証拠に、この軍扇を廊下に置いて来なされ」と差し出した。その時、秀吉が、「この太刀を指して行かっしゃい」と大典太を貸してくれた。それを差して、千畳敷きに行ったが、何も出なかった、という。その後、前田家の重宝になるまでの経緯については三説がある。
一説は、前田利家の息女:加賀殿は、阿野権大納言実顕の内室だった。その人が腫れの病にかかった時、それを治すため枕刀として、阿野家に貸してやった。しかし、その功もなかったので、死後、前田家へ返還したという。加賀殿というのは、初め秀吉の側室で、のち万里小路大納言充房に嫁した人である。したがって阿野は万里小路の誤りでなければならない。加賀殿の死去は慶長10年(1605)10月13日であるから、この話はそのころ、つまり秀吉の死後ということになる。しかし慶長5年(1600)8月調べの「豊臣家御腰物帳」には、すでに記載を欠くから、それ以前に豊臣家を出ていたはずである。
二説は、秀吉から徳川家康をへて、将軍:秀忠に伝わっていた。秀忠の妹:珠姫は前田利常の妻であるが、それの娘がある「異病の煩ひ」、または「邪気の煩ひ」に罹った。それを払うため、将軍:秀忠から本刀を拝借して、枕許においたところ、たちまち平癒した。さっそく将軍家に返したところ、再発したので、また拝借。快復したので返却したところ、またまた再発した。三度目は拝借に行ったところ、もう返さなくてよろしい、と拝領仰せつけられた、という。
三説は、病気したのは前田利家の三女で、秀吉の養女として宇喜多秀家に輿入れした人、拝領したのは秀吉から、という説がある。「享保名物帳」享保八年本には、一説と二説の両説を併記してある。前田家の記録では、三説になっているから、これを正説とすべきである。本阿弥光山は、秀吉から利家が借りたのは大典太ではなくて、小鍛治の薙刀だった、と主張している。女の治病のためには薙刀がふさわしい。さらに小鍛治の薙刀の鞘を押し戴くだけで、病気が治った、という話もあるので、てっきり薙刀と勘違いしたものという。
前田家では寛文9年(1669)、本阿弥光甫に命じて、大典太に鬼丸拵えをつけた。しかし鎺の裏にある桐の紋を前田家の梅鉢の紋に替え、目貫も梅鉢の紋にした。前田家では延享3年(1746)の暮れ、藩主:宗辰が早世し弟の重煕が襲封すると、さっそく本刀と小鍛治の薙刀を金沢から江戸に取り寄せた。若い重煕はすぐさま見たがったが、前藩主:宗辰が前年の暮れ亡くなったばかりで、服喪中だった。「服喪中にはご覧できない習わし」と西尾隼人が遮ったので、さらばその由来を書いて出せ、と命じた。それが、「大伝多太刀小鍛治薙刀記」と題する由緒書きである。
寛政4年(1792)8月19日、江戸千住の小塚原で、山田浅右衛門吉睦が死囚を試した。一回目は一ノ胴、二回目は車先(臍の辺)を試した。ともに土壇に5寸(約15cm)ほど切り込んだ。三回目は骨の多い雁金(腋の下)を試したが、同じく土壇まで切り込んだ。四回目には三つ胴を試した。上と中の死体は、摺り付け(鳩尾)を両断し、下の死体は、一ノ胴のすこし上を切り裂いて背骨で止まるという凄い切れ味を示した。
文化9年(1812)3月、本阿弥重郎左衛門が江戸藩邸においてある名刀の手入れをした時の記録にも、大典太が載っているから、重煕の時以来、江戸藩邸に保管されることになったようである。金沢城の蒔丸にある宝蔵に、大典太が保管されていたので、烏も恐れて屋根にとまらない。それで「烏止まらずの庫」といったという俗説がある。その庫は金沢でなくて、江戸であったともいう。安政3年(1856)、本阿弥喜三次に研がせたが、それも江戸であった。刀箱は外箱が春慶塗り、内箱が白木で、ふだんは白鞘に入れ、白絹で包んであった。現在も前田家に伝来し、国宝に指定されている。

「名物帳」には「京都将軍家之御重代、尊氏公より十三代義輝公へ伝り、惣て御秘蔵御重代之太刀三振之内也。義昭公より秀吉公へ被進。壱振は二つ銘、壱振は鬼丸也。浮田中納言秀家卿御内室邪気の御煩有。依是秀吉公より利家卿此太刀を拝借し御枕本に被差置ければ早速御快気に付(き)即(ち)返上被成ける。再発に付(き)又御借り御快気之上暫く被差置、弥御快気に付(き)返上又々発る。三度目に利家卿拝領也。其外前後不思議数々有。右御病人者利家卿之御息女なり。利常卿之御代歟光甫に御申付(け)鬼丸の如く楠造りに御拵出来。
一本に東照宮御秘蔵大徳院様御代小松中納言利光卿女邪気の煩有之により御太刀拝借早速本復故返上又発するにより再び拝借。篤と本復の上返上又々再発三度目に被下と云。」

「大伝多太刀小鍛治薙刀記」
大伝太御太刀 銘光世作
但 表裏樋、本ニ添樋有之、中心半下ニテ掻流。
御目貫、釘穴弐ツ。
長弐尺壱寸七歩、御中心長幅、御鎺本ニテ壱寸弐歩半、中程ニテ壱寸半、横手ニテ八歩半。
樋ノ幅、御鎺本ニテ四歩半、中程ニテ三歩八厘、横手ニテ壱歩半ツヨシ。
重ネ、御鎺本ニテ二歩半ツヨシ。中程ニテ弐歩、横手ニテ壱歩半ツヨシ。
帽子、横手筋ヨリ鋒マデ壱寸壱歩半、小鎬先ヨリ鋒マデ六歩半、少シク磨上。棟刃区磨、中心先切ル、但棟刃区ニテ五歩程磨上る、八歩程スル。
御鎺、四歩一、御帯表画ノゴトキ、鳩、御帯裏梅彫画ノゴトキ有之。
高サ、棟方ニテ壱寸七厘、刃ノ方ニテ壱寸壱分ツヨシ。中、見先ニて壱寸二歩、台尻ニテ壱寸弐歩半。
一 安政三年(1856)、江戸表ニテ本阿弥喜三次(光佐)江、御研被仰付。常々御休鞘ニ入、御函上ハシンケイ(春慶)塗、中函白木、御服紗白絹。御拵ハ尤御太刀拵、御録(縁)頭無地黒銅、御鮫墨ニテ塗。御柄糸ハ茶糸。御目貫(梅鉢紋)如写。赤銅ニテ梅鉢有之。御鐔は赤銅ニテ(菱紋)如此、三枚御鐔。御鞘ナメシ革ニテ也。トウカ子(胴金)等、都而黒銅ナリ。
転多御太刀・小鍛治御薙刀由来ノ義、延享四年(1747)、表納戸奉行書出候紙面写
転多御太刀・小鍛治御薙刀、金沢ヨリ江戸表江御取寄被遊候。其節、御服(喪)中ニ付、御先代様(前田家七代:宗辰)ニモ御服中には不入御覧段、西尾隼人(克明、家老)江申達候得ハ、左候ハハ其由可申上旨被仰聞、右御品之由来書出可申旨ニテ、左之通書出、弐品会所奉行・堀三郎左衛門(勝周)江、伝附被仰付候事。
一 筑後三池大転多光世御太刀、楠御拵、従秀吉公、大納言様(前田利家)御拝領。
一 元明(後陽成)天皇之御宇、浮田中納言(秀家)殿御内室様(前田利家の三女)、御病気ニ付、従秀吉公、大納言様江御貸被成候テ、御病気御本服ニ付、御返上ニ相成候処、又々御再発被成候ニ付、被下之候。小鍛治ノ作の御薙刀ナク、其後長ク御本服被成候由、本阿弥光山物語。
一 中納言様(前田家三代・利常)御代、本阿弥光甫江被仰付、典多御太刀、公方御物之鬼丸之如クニ、拵指上候様ニ、寛文九年(1632)被仰付、同年御研被仰付候刻も、御金具者其儘御用ニ相成候。
一 利家様伏見ニ被成御座候節、太閤秀吉公之御側江毎夜、黒田(長政)公・加藤清正公等之勇士列座、御夜伽有。或時何も咄被申候者、御座鋪千畳間御廊下ノ通ヲ、及深更壱人通候得者、極メテ大小之小尻ヲ引留メ候テ不通、色々与勇気ヲ励マスト雖、不通立戻候得者、何ノ替事無之候。奇怪成事与被申候時、利家様被仰候者、夫ハ合点不参事ニ候。各左様之有由ヲ心ニ付、臆シテノ事ナルト被存候。何之汚も可有之間敷、ト被仰候ニ付、一座之衆中景色被替、左様候ハバ、利家公御越御覧候得ト被申、御心得被遊候テ、唯御超被成候而ハ、印無之事ニ候間、何方印ヲ残シテ可懸御目ニ哉与、有之時、清正公軍扇被出、覚江御約束有之候所、其夜、秀吉公御召ノ上、御直ニ此転多御太刀ヲ帯御越被候様、被仰。則御帯シ御越相成候所、何之奇怪も無之、御約束之印ヲ被残、清正公初御一統、利家公の御勇気御恐之由ニ候。
但右之御太刀ハ京都将軍家之御重代、御物数之内ニテ御代々、御秘蔵之太刀三振也。義照(公)より秀吉公江右三振共御伝、其内二ツ銘有、愛岩(宕)山ニ御納、鬼丸ハ本阿弥代々被御預、今壱振ハ右大転多御太刀之旨、本阿弥弥一郎右衛門(成美)申聞候。

小鍛治御薙刀
但 御箱之内江入置有之、本阿弥光甫より、今枝民部(近義、家老)殿江、指添候紙面写、右之通
此御薙刀、鞘師久右衛門与申者方江、遣候鞘申付候所、久右衛門弟子疾病相煩、万事御座候而、時ヲ相待申仕合ニ付、迷惑仕候所、俄ニタハ言申候テ、歴々大勢御出御セメ候故、中々此内ニ罷在不申候。早罷帰ラント、ワメキ寸サマシキ躰仕立候テ、直様平愈仕、近所之者共見申テ、同病之者共ニ、御薙刀ヲ為戴申候得者、以上八人取付候煩人、不残本服仕候由、日本橋鞘師参候而、右之通申聞、此御薙刀何タル様子ヲモ不申聞、誂へ申候承、此こと者名誉無限奉存候。
則ち御鞘ヲ御鞘師拝領可仕旨、申イタシ不申候ヲ取戻。御鞘ニすん袋(鞘を包む袋)者、羅紗ニテ被仰付可然候。其間古鞘ニ御指置被成、古鞘ヲ鞘師ニ御取らせ可被成候。鞘之内ニ錆御座候得共、錆ヲ秘蔵仕候。万事面上可申上候。恐煌謹言 霜月三月 本阿弥光甫 今枝民部様 参

大伝多与小鍛治宗近之儀、御尋に付申上候。
一作品位付に定り御座候。最上之位与申は、吉光・正宗・義弘に而、小鍛治之儀は右三作に引続候位に御座候。大伝多之儀は宗近より遙位劣申候ヘ共、足利家御代々御相伝之霊剣、三振之内にて天下之内にて天下之什器に付、作品に不相拘、尊き儀に御座候。
御家小鍛治・御薙刀之儀は、松雲院(前田家五代綱紀)御代、伝太之通り地上を離れ候御仕立に、被仰付候節、御尋有之袋之儀、先祖本阿弥光甫・光山申上候通り、蜀江錦に被仰付、一体之御仕立、伝太同様之尊敬に罷成候。
今般、御尋之小鍛治御腰物之儀は、外名物高代御道具とも違、御家非類之御腰物に付、前々より蜀江錦御袋に而、別御箱入に被成置候に付、格別に相心得、御手入仕来候。然処近来地上を離れ申候、御仕立に相成、全右伝太御太刀・小鍛治御薙刀之通に、被仰付候に付、別而尊敬仕候儀に御座候。以上
(寛政七年)六月 本阿弥(判) 御納戸奉行五人様

形状は、鎬造り、丸棟、身幅広く、重ね薄く、腰反り高く踏張りがあり、猪首鋒の太刀である。鍛えは、大板目流れ、やや肌立ち白けごころの映り立つ。刃文は浅いのたれ調の細直刃で、刃縁ほつれ、所々に小足が入り、物打辺は二重刃となり、全体に細かに沸がつく。帽子は刃細く、丸く浅く返る。彫物は表裏に幅広の刀樋を掻き流し、表の腰に太い添樋を彫る。茎は生ぶ、茎先を一文字に切り、鑢目切、目釘孔二、表の目釘孔の下に太鏨で「光世作」と銘を切る。
三池典太光世は平安時代後期に筑後国の三池の刀工で「てんた」と称し、それには伝太、伝多、転多、転太、典太などの字をあてている。代々光世を襲名して室町時代に及んでいる。光世の作は一般に身幅が広く、幅広の樋を彫り、鍛えは大板目が流れて柾がかって白け、刃文は細直刃で小沸がつき匂口がうるみ、焼落しがある古典的な作風となる。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
#大典太光世

(法量)
長さ 2尺1寸8分(66.1cm)
反り 8分9厘(2.7cm)
元幅 1寸1分5厘(3.5cm)
先幅 8分2厘(2.5cm)
鋒長さ 1寸1分(3.35cm)
茎長さ 6寸1分3厘(18.6cm)
茎反り 1分6厘5毛(0.5cm)

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