五月雨江
五月雨江(さみだれごう)
- 指定:重要文化財
- 刀 無銘 江義弘 (名物:五月雨江)
- 徳川美術館蔵
- 長さ 2尺3寸4分(71.5cm)
- 反り 5分(1.5m)
五月雨江は越中郷義弘極めの刀で「享保名物帳」に所載する。五月雨のころ本阿弥家で郷義弘作と極めたので、五月雨江という刀号がつけられた。五月雨(さみだれ)とは、サはサツキ(五月・皐月)のサに同じ、ミダレは水垂(みだれ)の意という。陰暦五月頃に降る長雨をいい、また、その時期、つゆ。梅雨。皐月雨(さつきあめ)。
初め本阿弥光琢が取り出してきて、越中宇多物の鑑定になっていた。それを本阿弥光瑳が研ぎなおし、刃肉が多くついていたのを取ってしまい、本阿弥光室が郷義弘に極めなおした。それを黒田長政が買い求めた。長政が元和9年(1623)3月10日死去すると、その遺物として二代将軍秀忠へ献上した。
加賀の前田光高が寛永6年(1629)4月23日、三代将軍家光の前で元服したさい、前将軍秀忠から五月雨江を拝領した。将軍家光の養女:阿智姫(清泰院・水戸頼房の娘)が、寛永10年(1639)12月25日、光高に入輿したさい、光高の父:利常より五月雨江、八幡正宗などを将軍へ献上した。前田家の記録では、寛永17年(1640)3月28日、家光が前田家の別荘を訪れたとき、光高が献上したことになっているが、それは誤りである。
江戸城の大広間において、御刀お手入れのさい、五月雨江だけは刀に霧がかかったように曇っていた。列座の老中たちが、五月雨江とはよくも名づけたものよ、と感心していた。だが、実は本阿弥光甫が銹防止のため、鞘のなかにまで油を引いておいていたためだった。尾張の徳川光友が寛永16年(1639)9月28日、将軍家光の息女:千代姫と結婚したさい、婿引き出として将軍家光より、江戸城白書院において五月雨江の刀と後藤藤四郎の短刀を拝領した。
そのころ五月雨江は五千貫の代付けだったが、享保のころは、二百五十枚になっている。光友の子:綱誠が寛文7年(1667)9月、広橋権大納言忠幸の息女と結婚したのを祝して、父:光友は五月雨江を綱誠に譲った。元禄12年(1699)6月5日、綱誠が死去すると遺物として、7月25日、将軍綱吉に献上した。それ以来、将軍家に伝来していた。昭和14年5月27日付で徳川家正公爵名義をもって、国宝に認定された。昭和19年3月、徳川家正より徳川美術館に寄贈、謝礼として五万円が贈られた。戦後は重要文化財。
「名物帳」には、「御物 五月雨(江) 磨上 長さ弐尺三寸四分 代二百五拾枚
五月雨の頃究るに付(き)異名と成(る)。元光琢取出し大方宇津の目利也。初め刃肉丸く難見分。光瑳肉すき研直し皇室此作に究る。筑前守長政卿御求(め)秀忠公へ上る。利常卿拝領。清泰院様御入輿之刻上る。於御城大広間御拭之節御老中方御列座也。此刀斗に毎度霧の掛りたる様に見ゆる。五月雨とは能(っく)名付けたりと被仰候由。是は加州に有之内光甫鞘之内へ油被置候故也。家光公より尾張中納言殿へ御聟引出物に被遣、其頃五千貫之代付也。中将殿御婚礼之時分中納言殿より被進。元禄十(二)為御遺物上る。」
尾張徳川家における記録では
・中将様御道具 御腰物御脇指帳(慶安五年-享保十六年)
一 無銘 五月雨郷御腰物 代五千貫 御拵有之 大殿様(二代光友)より
是は寛文七年未ノ九月廿六日御祝言被遊廿七日市買(谷)へ御越之時吉光(後藤藤四郎)御拵と共に被相進(三代将軍家光より尾張二代光友が拝領する。)
・徳川美術館現使用台帳
昭和十九年三月三十日徳川家正公爵家(旧将軍家)ヨリ特別寄贈セラル。謝礼金五万円也。
・鞘書
五月雨郷御刀 無代 長弐尺三寸七分 元禄十二年卯七月廿五日尾張中納言殿(尾張三代綱誠)御遺物
形状は、鎬造り、庵棟、大磨上にて浅い鳥居反りとなり、中切先、フクラが枯れる。鍛えは、小板目がつんで杢が交じり、地沸つき地景入る。刃文は、のたれに小乱れを交じえ、刃縁は細かに沸えて匂い深く匂い足がさかんに入る。打のけや砂流しがかかり掃けごころに変化が多く富む。帽子は浅く乱れ込み、表裏ともに深く焼下げて先は強く掃きかける。中心は大磨上げ、先一文字、鑢切り、棟平、目釘孔二。銘はない。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 2尺3寸4分(71.5cm) |
反り | 5分(1.5m) |
元幅 | 1寸(3.0cm) |
先幅 | 7分(2.1cm) |
元重ね | 2分(0.6cm) |
先重ね | 1分2厘(3.6cm) |
茎反り | 6寸4分(19.4cm) |