瀬登太刀
瀬登太刀(せのぼりのたち)
- 指定:重要文化財
- 大太刀 無銘 (号:瀬登太刀)
- 日光二荒山神社蔵
- 長さ 4尺1寸2分(124.8cm)
- 反り 1分6厘(4.9cm)
鎬造,庵棟、長寸で重ねが厚く、身幅広く、鎬が高く大峰となる。反りが深く、長大ながら姿の良い太刀である。鍛えは板目に杢目や流れ肌が交じって総体に肌立ち、地斑が頻りに入り、乱れ映りがあらわれている。刃文は小乱で、尖り心の小丁字を交え、中程は二重刃風にほつれ、足・葉入り、沸よくつき下半を中心に砂流し盛んにかかり金筋入る。帽子は表乱れ込み先突き上げて僅かに返り、裏直に先小丸に返る。彫物は、表に二重樋に異風の三鈷付倶利伽羅、裏は二筋樋に笹竹と筍を刻している。茎は生ぶで反りがつき、先やや細り刃上り栗尻、鎬筋が立ち、鑢目は大筋違、目釘孔二個、傷みの少ない丁寧な茎仕立てであるが元来の無銘で「瀬登」の号がある。
大振りな体配は、作られた時代が南北朝時代であることを示しており、地鉄に映りがあらわれ備前の作風が窺われる。この期の備前は、長船派正系の兼光一門を中心に、同じ長船を冠する別系の元重一派や長船一門、及びこれらに属さない傍系の刀工達が入る。この太刀は作者を決しがたいが、地刃の出来から見て傍系のものといわれている。刀身佩裏の彫は、剣に巻き付いた龍が上下の樋へ顔を向け、いまにも大谷川の瀬(樋)を泳ぎ昇ろうとするようにも見え、この号の由来である瀬登伝説を想起させ、裏は奉納刀らしく神の依代である笹竹を添えて彫っている。
毎年4月の弥生祭りのさい、柏太刀・祢々切丸の両太刀とともに、頭のついた雄鹿の皮のうえに並べ、神に捧げる。
瀬登太刀には黒漆山金蛭巻き兵庫鎖太刀が附し、総長175.0cm、柄長40.0cm、鞘長134.8cmとなる。柄は黒漆塗、山金の帯金を蛭巻きにする。兜金は蛭巻と同質の山金で素文、中央内側に花先形の切れ込みを入れる。鐔は山金、葵形で、素文であり四方に猪目の透かしを入れる。倒卵形の小切羽二枚ずつ付属する。
鞘は黒漆塗、柄と同様に山金の帯金を鞘口から石突まで全面に蛭巻する。鞘口は山金、猪目を透かした金具に円形の縁金を重ねる。縁から二の足の先まで山金地鍍金の長い雨覆をかけ、先端を花先形にし、刃方には同様の芝引を付ける。足金物は幅の広い単脚式で中心に鎬を作り出し、山金地鍍金の木瓜形の金具を重ね銀鋲で留める。櫓金は花形、花形、方形、小刻の座金を重ね、頂部の鐶に籠状を呈した銀製兵庫鎖を付ける。責金は二個で、先を柏葉形とする。石突は欠失している。
黒漆塗の上に柄、鞘とも全体に山金銅の蛭巻を施し、帯執を籠状の兵庫鎖としているところが特徴的である。兵庫鎖太刀は平安時代に武家および公家の武官で用いられたが、あまりの豪華さのためにしばしばその佩用を禁じられた。その後、神社への奉納に多く用いられるようになり、現在、奈良:談山神社、同じく春日大社に平安時代、和歌山:丹生都比売神社、広島:厳島神社、愛知:熱田神宮などに鎌倉時代の作品が伝わっている。それらの帯執の兵庫鎖は縦に直線的に編んだものであったが、奈良:春日大社の金地花押散兵庫鎖太刀は、本作と同様の籠形となっており、しかも中身の太刀に、貞治2年(1363)の銘文があって、南北朝時代の作と知られる。兵庫鎖の形式化が認められ、この太刀も中身とともに南北朝時代の制作といわれている。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 4尺1寸2分(124.8cm) |
反り | 1分6厘(4.9cm) |
元幅 | 1寸6分(4.2cm) |
先幅 | 8分6厘(2.6cm) |
鋒長さ | 1寸6分(4.8cm) |
茎長さ | 1尺1寸(33.4cm) |
総長 | 5尺2寸2分(158.2cm) |