水心子正秀
水心子正秀(すいしんしまさひで)
- 位列:新々刀最上作
- 国:武蔵国 (東京都・埼玉県・神奈川-東部)
- 時代:江戸時代後期 文化頃 1804-1817年頃
水心子正秀は初代は出羽国置賜郡賜郷元中山(山形県南陽市元中山)諏訪の原の俗称「田中」において、寛延3年(1750)、鈴木某の次男として出生した。幼名を三治郎と呼ばれた。父を早くに失ったので、母は兄:太兵衛と三治郎を連れ、本家の鈴木権次郎方に身を寄せた。少年期になると、置賜郡赤湯新田(南陽市北町)の野鍛冶:外山某に入門したが、農具より刀造りにあこがれ、さらに置賜郡長井郷下長井村小出の吉沢三次郎について、鍛刀の法を学んだ。そして刀銘を「鈴木三郎宅英」と切った。ただし、仙台城下に行って、国包に学んだ。という異説もある。その後、山形城下に帰り、名を英国と改めた。
明和8年(1771)、22歳の時いよいよ刀工として立つ決心をした。そのためには本格的な修行が必要である。藩士の紹介で、武州川越城下の宮川吉英に入門した。吉英は下原派の武蔵太郎安国の門人で、大村加卜の伝であった。それもさほど学ぶべき所はなかった。長く滞在することもなく、山形に引き揚げた。その手腕がようやく認められ、安永3年(1774)、山形城主:秋元永朝に召し抱えられた。名も儀八郎正秀と改め、やがて水心子という号も用い始めた。
天明(1781)以後は、江戸へのぼり、日本橋浜町(中央区浜町)の秋元家中屋敷に定住した。そして備前伝については石堂是一、相州伝については鎌倉の綱広に教えを乞うた。さらに駿州島田に義助の子孫を訪ね、相州正宗相伝の系図や鍛法の秘書を譲り受けた。そのほか備前の助平・吉平・一文字・国宗などの伝書も入手したという。しかし、卸し鉄の法は見るところがなかった。偶然のことから、弟子の高橋正賀より教えられたともいう。
正秀がある大名から南蛮鉄を提供され、作刀を始めたが、割れて飛び散り、うまく行かなかった。正秀が留守中に、正賀が飛び散った南蛮鉄の破片を拾い集め、それで小ガタナを作ったところ、見事にできた。正秀が帰ってきて驚き、訳をきくと、南蛮鉄を卸して作った、と答えた。こうして正秀は正賀から卸し鉄の法を修得した、という伝説がある。
その真偽は別として、正秀は卸し鉄の法を用いた、いわゆる復古刀を唱導して、全国から無慮百名以上の門弟を集めた。そして刀工史上に「新々刀」という一紀元を劃する大御所となった。なお、「剣工秘伝志」「刀剣辨疑」「刀剣実用論」「刀剣武用論」「鍛錬玉函」などの著述によって、鍛刀術に与えた恩恵は大きい。
文政2年(1819)、古希を迎えると、天秀と改名、なお鍛錬に情熱を燃やしていたが、文政8年(1825)9月27日、享年76をもって、実りある生涯を閉じた。本所御舟蔵前町(江東区新大橋2丁目)、西光寺に葬られた。門弟30数人の連盟で、壮大な墓が営まれたが、その後、火災によって焼壊した。それで正秀の嫡孫:正次が焼け残った台石の上に、棹石を再建した。それには、「初世水心子天秀之墓 三世水心子正次之墓」、と併記してある。正次は万延元年(1860)閏3月11日没であるが、余命いくばくもない、と考え、棹石再建のさい早めに自身の名も書き添えたのであろう。そして、正次夫婦の法名や没年を、後から追刻したことは、それが天秀夫妻の法名や没年と、書体を異にしていることからも首肯される。
正次再建の墓も、大正12年の関東大震災で焼壊し、かつ無縁になったので、壮大な台石も廃棄された。それを悲しんで昭和16年、山浦真雄清麿建碑会の手によって、三たび建碑された。それも戦後の墓地整理で、他の場所に移建されている。なお、正次再建の棹石が、犬塚宗秀師の宅に保管されていたので、昭和40年、それを基にして新宿区須賀町、宗福寺に4たび建碑された。
「大慶直胤」「源清麿」とともに江戸時代後期に活躍した「江戸三作」にかぞえられる。
作風は、初期作は荒沸えのついた無地肌の地鉄に、荒沸えのついた乱れ刃を焼くが、中期作になると、肌のある、小沸えづきの地鉄に、直刃や互の目乱れをやく。特に濤欄乱れは、津田助広に迫るものがある。しかし、復古刀を提唱し始めると、刃文が地味になり、匂いの締まった直刃や小互の目を焼くようになる。銘には「正日出」「天日出」とも切り、また銘の下に、「日天」を図案化した刻印を打つ。精巧な彫物もあるが、それは本庄義胤の彫りである。
二代:貞秀は初代水心子正秀の嫡子。通称は熊次郎、名は初め正広、中ごろ水寒子貞秀、父が文政2年(1819)、天秀と改銘した時、水心子正秀を襲名、さらに入道して「白熊」と号した。文政5年(1822)7月15日、越後の関根秀弘に、「鍛錬造刀玉鑑」と題する秘伝書を授けた。父より一か月遅れて、文政8年(1825)10月20日没、47歳。御舟蔵前町(墨田区千歳2丁目)の西光寺に葬られた。墓碑には貞秀夫妻と、貞秀の弟:春楓童子とが合葬され、碑側に、「我もまた淋しき道へ落葉かな白熊入道」と貞秀の辞世のの句が誌され震災で、西光寺が炎上した際、墓碑は無縁として撤去された。作風は、貞秀は父の死後一か月で、自分も死去したため、独立の作品は少ない。あっても父の晩年の作にはほぼ等しい。
三代:水心子正次は、水寒子貞秀の子で水心子三代目。父の死亡時、まだ13歳、よって大慶直胤に師事、のちその娘婿となる。長じて川部北司と称し、武州館林藩工となる。下谷御徒町(台東区)住。万延元年(1860)閏3月11日没、47歳。墓は初代正秀と合墓で、墨田区千歳2丁目の西光寺にあった。大正12年の関東大震災で焼けたが、その棹石が残っていたので、昭和40年、新宿区須賀町の宗福寺に再建された。作府は、祖父の復古刀にならい、大乱れ荒沸えできの相州伝、匂いでき丁子乱れの備前伝、直刃ほつれの山城伝などを焼く。ただし、地鉄は弱い無地鉄風のものが多い。
四代:三代正次の養子。通称は勇吉郎・藤次郎(藤一郎)、のち儀八郎を襲名。名は初め秀勝。明治26年没、51歳。
刀 銘 川部儀八郎藤原正日出(花押) 享保三年正月吉日 (重要美術品)
長さ:2尺3寸5分
川部儀八郎正秀は羽州赤湯の出身で、始め宅英と名乗り後山形へ移って英国といい、安永3(1774)江戸へ出て秋元家に仕え川部儀八郎正秀と称し、水心子と号した。本作は身幅広く反り浅く中切先の姿である。鍛えは小板目が殊によく約む。刃文沸出来浅く湾れ、大互の目濤欄ごころとなり、匂敷き荒沸交じる。彼の得意とした津田助広風の濤欄刃を焼いた傑作である。
水心子正秀の前期作にはこの刀が示しているように助広あるいは真改を狙っているものがあり、後期作には古刀の各伝を狙っているものがあり、刀剣史上では、後者が当時の世相を示している意義があるが、出来はむしろ前者に佳作を見る。その一例がこの刀である。