太閤左文字
太閤左文字(たいこうさもんじ)
- 指定:国宝
- 短刀 銘 左 筑州住 (号:聚楽・太閤左文字)
- ふくやま美術館蔵
- 長さ 7寸8分(23.65cm)
- 反り 3厘(0.1cm)
太閤左文字は太閤:豊臣秀吉の蔵刀の一振で、埋忠寿斎が模写した豊臣秀吉の蔵刀を本阿弥光徳が記録した「本阿弥光徳刀絵図(寿斎本)」(元和元年:1615)、及び「中村本」(慶長5年:1600)に所載する。光徳刀絵図には仮名で「同(御物) しゆらく 七寸八分半」の注記を伴って描かれている確実な太閤御物であり、いつの頃からかおそらくは戦後、昭和の後半の頃より「太閤左文字」の号で知られている。
光徳刀絵図(寿斎本)には「志ゆらく(しゆらく)」つまり「聚楽(じゅらく)」と往時の名号も記されており「聚楽左文字」とも呼ばれていたようである。
慶長5~18年までの豊臣秀頼時代の蔵刀記録である「豊臣家御腰物帳」にも、太閤左文字を指すであろう「左文字 御脇指 但しゆ楽より」の記述が見える。慶長16年(1611)3月28日、豊臣秀頼が京都の二条城において上洛した徳川家康と会見のさい、家康は左文字の刀(大左文字)と鍋藤四郎の脇指(鍋通し正宗とも)を贈り、秀頼は南泉一文字の刀と太閤左文字(聚楽左文字)の脇指を家康に贈った。
「豊臣家御腰物帳」の「御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ヨリ有之分之帳」(慶長6年)
三之箱 御たてこしらえへの分 一 左文字 しゆ楽より 慶長十六年三月廿八日大御所様え被進之
「御太刀御腰物御脇指方々え被遣之帳 慶長五年ヨリ同拾八年十二月迄」(慶長18年)
三之箱内 慶長十六年三月 一 左文字 御脇指 但しゆ楽より 大御所様御上洛被成候時被進之
埋忠寿斎が写本した光徳刀絵図(寿斎本:元和元年)にある注記の「同(御物) 志(し)ゆらく 七寸八分半」の「志(し)ゆらく」は「聚楽(じゅらく)」という刀の号であることを意味する。
もう一つの写本である中村本(慶長5年)には「志(し)ゆらくより上 長サ七寸八分半」とあり、聚楽(じゅらく)より献上されたことを意味する。
しかし、光徳刀絵図五巻のうち、寿斎本・中村本ともに写本となるので注意を要する。
一方で、豊臣家御腰物帳には下記のように記載されている。
「三之箱 御たてこしらえへの分 一 左文字 しゆ楽より 慶長十六年三月廿八日大御所様え被進之」(慶長6年)
「三之箱内 慶長十六年三月 一 左文字 御脇指 但しゆ楽より 大御所様御上洛被成候時被進之」(慶長18年)
「しゆ楽(聚楽)より」とは当時、聚楽第にいた関白:豊臣秀次より献上されたという意味であろう。
「しゆ楽(聚楽)より」の但し書きがあるものは三之箱の太閤左文字(聚楽左文字)の他には、四之箱の貞宗刀(前は左文字)、長光刀、守家刀の3振がある。
のちに家康から徳川秀忠の有となり、さらに秀忠に仕えて功のあった井上正就が拝領するところとなり、爾来、井上家に昭和の初めまで長く伝来した。幕末の同家は遠江国浜松城主で持高は六万国である。
江戸時代後期の作とみられる葵唐草文金襴包短刀拵が付属する。
聚楽鞘とは、金襴の布を貼りつけた刀の鞘。鞘木地に生漆をかけ、木目止めをしたあと、麻布を三枚ほど生漆をもって張り合わせる。さらに生漆を数回かけたあと、金襴の布を黒漆をもって貼りつけ、そのうえに生漆をかけたもの。
井上子爵家及某家所蔵品入札 昭和7年4月25日
202 左文字 短刀 2,680円
形状は、平造、三つ棟、三つ棟の中筋広く、重ねやや厚く、浅く反りつき、ふくら枯れごころで、小振り。鍛えは小板目肌よく練れてつみ、僅かに大模様の板目と流れ肌交じり、地沸厚くつき、細かな地景入り、かねに潤いあり、つよく冴える。刃文は、小のたれに小互の目と尖りごころの刃を交え、足入り、匂深く、小沸つき、処々荒めの沸がまじり、砂流し・金筋かかり、細かな湯走り入り、区際はめだって焼込みを見せ、匂口明るく冴える。帽子は突きあげて尖り、返りを深く焼下げ、表は棟焼状に断続的に区の辺まで連なる。茎は生ぶ、先浅い入山風、鑢目大筋違、目釘孔二。
太閤左文字は大左の特色を存分に表示して余すところがなく、保存のよさでは並ぶものがあっても、出来のよさでは他の追随を許さず、大左中の白眉と称すべきものである。とくに地刃の冴えは抜群であり、地刃に匂い勝ちの部分とつぶらな輝く沸が烈しくつくところとがあって、沸の変化の妙をいかんなく見せている。帽子の返りを深くつよく焼下げる状は本作に限ったことではないが、指表に見るような区の辺まで焼いた例は他に無い。左文字の銘字は常に細立ちであり、鏨がよくきいて伸びやかさを見て取ることができ、とり分けこの銘は切れがよく暢達である。
井上家の藩祖:正就は、十三歳で二代将軍:秀忠の小姓、百五十石から将軍の覚え目出度く、元和元年には遠州横須賀(静岡県小笠郡大須賀町)五万二千五百石の大名に、のし上がってしまった。
ところが、順風満帆の帆綱が切れ、寛永五年八月十日、江戸城西の丸において、目付役の豊島刑部少輔正次(信満)によって、たった一つある命を奪われてしまった。この江戸城殿中刃傷事件の第一号となったのは、次の理由からである。
正次の仲人で、正就の嗣子:正利と、大坂・堺両町奉行の島田越前守直時の娘との婚約がまとまっていたのに、正就は約を変じて山形城主:鳥居忠政の娘に乗り替えてしまった。直時は五百石の旗本、忠政は二十万石の大名、月とすっぽん、今をときめく老中の正就、五百石の小身、何するものぞ、という気持ちだったが、一寸の虫には五分の魂、武士に二言はないぞ、と叫びつつ正次は正就に斬ってかかった。斬り方がうまかったとみえ、正就はその場で落命。止めに入った小十人組番士の青木忠精も重傷、場内で息絶えた。正次は十二歳の息子とともに、翌十一日切腹を命じられ、跡は絶家となった。
二代:正利は、正保二年、常陸国笠間(茨城県)五万石の城主として転封。寛文七年、致仕の時、信国の刀を献上した。
三代:正任は、アタマが悪かったらしい。奏者番という重職にありながら、申し次ぎを忘れたり、大名や重臣の名を言上すべきなのに、しなかったりで、延宝二年には閉門、蟄居を命じられている。将軍の覚えも悪く、元禄五年には濃州郡上城に追いやられている。しかし、致仕の時の御礼は忘れていなかったとみえ、翌年御礼に備前宗吉の刀を献上している。
四代:正岑は、郡上から丹波亀山(京都府)を経て、また笠間に舞い戻っている。将軍:家慶から尻掛の刀や吉岡一文字、将軍吉宗からは青江の刀を拝領している。
五代:正之には、お刀拝領はない。
六代:正経は、陸奥平(福島県いわき市)へ移ったのち、大坂城代・京都所司代をへて、遠州浜松(静岡県)六万石の城主となった。
七代:正定は、三十三歳で早死。
八代:正甫は十二歳で藩主、二十八歳で奏者番の重職に就いた。それはともかく、女癖の悪い殿様だったらしい。信州高遠(長野県上伊那郡高遠町)の城主、内藤頼以が四谷の別荘に招いて、大いに歓待した。それに酒肴が出たが、女気はなかったのであろう。四十二歳の男盛りを抑え切れず、夜中に一人抜け出て、農家に押し入り、そこの女房を犯す、という大名らしからぬ不倫行為を犯してしまった。そこに女の主人が帰ってきた。怒り心頭に発したから堪らない。盛んに撲りつけているところに、家来が駆けつけた。平身低頭して、カネをたくさん握らせ、その場はどうやら収め、正甫を連れ帰った。家来たちが頭をしぼった結果、あれは殿様ではなかった。お付きの家来だったということにして、一人を人身御供にした。浜松に帰し、蟄居させた。そして禄高も増やしてやり、さらに美女二人をつけて給仕させる、というまさにハレムの日本版だった。しかし、人の口には戸は立てられぬ。その噂は、たちまち電波のように江戸市中に拡がった。正甫の登城駕籠が近づいてくると、下馬先にたむろしている足軽や駕籠かきから一斉に、密夫大名、夜這い殿様という罵りの声が、期せずして湧き上がった。それに驚いてある日、正甫の馬が駆け出し、葬式の列を蹴散らしたので、会葬者は棺桶をほうり出して逃げ散った。その話まで幕府の耳に入った。幕閣で黙過できないとして、奥州棚倉(福島県東白川郡)へ左遷した。文化十四年九月のことである。
十代:正直は、文化二年から三年までと、慶応元年から三年までと、二度も老中になっている。
明治維新になると、浜松は徳川家達の領地に編入されたので、井上家は上総石舞鶴(千葉県市川市)に移された。明治十七年、正直に子爵を授けられた。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 長さ 7寸8分(23.65cm) |
反り | 反り 3厘(0.1cm) |
元幅 | 7分4厘強(2.25cm) |
先幅 | 1分7厘(0.5cm) |
茎長さ | 2寸9分2厘(8.85cm) |
茎反り | 極くわずか |