富田江
富田江(とみたごう)
- 指定:国宝
- 刀 無銘 義弘 (名物:富田江)
- 前田育徳会蔵
- 長さ 2尺1寸4分弱(64.8cm)
- 反り 4分5厘(1.36cm)
富田江は「享保名物帳」に所載する越中郷義弘作の太刀で、もと伊勢国安濃郡津の城主:富田左近将監智信の蔵刀という。富田左近は豊臣秀吉の臣で、天正15年の九州の役に参加し、戦後美濃、近江両国内で所領を与えられる。文禄の朝鮮の役に金森法印と共に先備となり戦功をあらわす。文禄4年、伊勢国安濃郡の津城主に補せられ、慶長4年に卒す。または、加賀国前田家家臣で、八百石の知行をうけていた富田左近の蔵刀、であったという異説もある。富田家より堀左衛門督秀政が金十六枚を代価で買い受けて、さらに堀秀政は主君であった秀吉へ献上した。秀吉はそれを甥の関白:秀次に譲った。その後、再び秀次より秀吉へ献上されたというが、真実は秀次の自尽の後に、秀吉が没収したものであろう。
慶長3年(1988)に秀吉が没すると、豊臣家より秀吉の遺物として、加賀国金沢の前田利長へ贈られた。それを将軍:徳川秀忠に献上しておいたところ、寛永9年(1632)2月7日、秀忠の遺物として、前田利常が拝領した。以後、前田家に伝来、昭和11年9月18日付、前田利建侯爵名義で、国宝に認定、戦後も昭和31年6月28日、新国宝となり今日に至る。
寛永(1624)の初め、加賀本阿弥の本阿弥光瑳はその代付けの価額を金八百枚あるいは二万貫という高額の代付けを主張したが、本阿弥本家の十代:光室は、代付をすることは付けがたい、と言って折紙を出さなかった。
文化9年(1812)3月、富田江のお手入れをしたことのある本阿弥長根は、「享保名物帳」を増補して、「天下一之江也」、と褒め上げている。
名物帳には「松平加賀守殿 富田江 磨上 長さ弐尺壱寸四分 不知代
富田左近殿所持。堀左衛門太夫殿代金拾六枚に求(め)秀吉公へ上る。秀次公へ被進、又秀吉公へ被上。為御遺物利長卿拝領。秀忠公へ上る。又利光卿拝領。天下一之江也。寛永之頃光瑳代付之吟味有之入札之ごとく印形之書付にて八百枚又弐万貫と申事也。光室兎角代付之積り難成御道具とて其時さえ不成代付道具成。」
形状は、鎬造り、庵棟、身幅広く、反り浅く、鋒の延びた刀である。鍛えは小板目よくつみ、わずかに柾ごころがあり、地沸細かにつき、地景入る。刃文は、浅いのたれに互の目交じり、足・葉よく入り、匂深く小沸厚くよくつき、金筋所々にかかり、匂口明るく冴える。帽子は、乱れ込み、表は尖りごころの小丸、裏は大丸に返る。彫物は表裏に棒樋を掻き通す。茎は大磨上げ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔二、無銘。名物帳の正本よれば磨上げは利長が行ったと記されている。
郷(江)義弘は相州正宗の十哲の一人と伝える越中国の刀工である。富田江は太刀を磨上げて刀にしたものであるが、身幅が広く、鋒が延びているなど鎌倉時代から南北朝時代にかかる頃の姿を示しており、鍛えは小板目がよくつんで美しく、刃文は浅いのたれに互の目を交じえ沸匂が特に深く明るく冴え、帽子は一枚帽子風に深く焼くなど、義弘の特色をよく示している。江戸時代は江(郷)中第一の作とされていたが、さすがに地刃が明るく冴えた名刀である。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 2尺1寸4分弱(64.8cm) |
反り | 4分5厘(1.36cm) |
元幅 | 9分8厘(2.96cm) |
先幅 | 7分6厘(2.3cm) |
鋒長さ | 1寸6分(4.85cm) |
茎長さ | 4寸3分5厘(13.2cm) |
茎反り | 僅か |