雲次
雲次(うんじ)
- 位列:古刀 上作
- 国:備前国(岡山県-南東部)
- 時代:鎌倉時代後期 文保頃
雲次は備前鵜飼派の刀工で、備前と備中との国境にある剣嶽の出身という。初銘を国吉といい、兄の国友とともに元亨年中に上京し、後醍醐天皇からの勅命を受けて一振の太刀を鍛えることとなった。その時に天に向かって、叡慮にかなうような名剣を得せしめ給え、と祈願していたところ、ある夜、浮雲を模して刃文を焼いた夢をみた。兄弟が揃って同じ夢をみた。そこでこれは天よりお告げだ、というので、夢にみたとおりの浮雲を模した土取りをして刃文をやいたところ、その太刀は比類のない優れた出来ばえだった。後醍醐天皇に鍛えた太刀を献上して、兄弟が揃ってみた同じ霊夢の話を申し上げたところ、天皇も深く感じ入って、以後より、兄の国友より雲生、弟の国吉より雲次と改名するよう、とのご沙汰があった、という伝説が「古今鍛冶備考」に載っている。
しかしながら、このような趣旨の伝説というのは、「古今鍛冶備考」以前の古剣書に見当たらずに、雲生の銘の太刀は、後醍醐天皇が即位する以前からあるので、この伝説は信じがたい。雲次には正和から建武に至る間の年紀がある。長命とみえ、70余歳まで刀を造っている。雲次には二代あって、初代の銘は「備前国」の国のなかが「玉」の字になる。また「雲」の字の第一画は、初代は横、二代は縦に打つ、という。「雲」の雨冠のなかの点は、初代は一つ、二代は二つずつあるともいう。
作風について、山心の見付け、または山心近き事、という口伝がある。山城物に作風は似ている。という意味である。逆足の洲というのは、乱れに逆心があって、刃の中に染みのあることをいう。かんの刃とは、帽子が横手のうち半分から、三つ頭のすこし下まで、刃の細くなっていることをいう。