大和守安定
大和守安定(やまとのかみやすさだ)
- 新刀上作
- 良業物
- 武蔵国 (埼玉県・東京都・神奈川県-東部)
- 江戸時代前期 慶安頃 1648-1651年頃
大和守安定は紀州石堂派の出身の刀工で、姓は「トンダ」で、飛田とも冨田とも書く。宗兵衛と称し、初め、大和大掾、のち転じて大和守を受領する。初期の大和大掾時代には、紀州石堂派の和歌山住冨田安広との合作刀がある。江戸に出てからは、越前康継とも合作している。
明暦元年(1655)には、伊達家の招きに応じて、奥州仙台にくだり、同地において奉納刀を打っている。安定には寛文10年(1670)、53歳の作がある。江戸の神田白銀町(千代田区神田旭町・司町)に居住した。刃の合いを取るのが上手だったため切れ味が良く、山野加右衛門の截断銘の入ったものが多くあり、なかには、「天下開闢以来五ツ胴落」、と切ったものさえある。しかし、山田浅右衛門は「良業物」としか評価していない。これは、合いを取った刀は、当初よく切れるが、年数を経ると鉄が甘いため、切れが鈍るという説を実証しているようである。「二代目安定銘之」、と切った脇差があり、これは初代が27歳のとき出生した飛田宗太夫安次が襲名したものである。作風は、反りの浅い、先細りの剣形で地鉄は杢目詰まって強く、地沸えつき、棟焼きが多い。刃文は小沸出来の湾れ、または互の目乱れをやく。
合いを取るとは、焼戻しの一種で焼き入れした刀身を軽く熱した後に冷却する操作で、焼き戻しによって、靱性つまり粘り気が増し、折れ曲がり難くなり、切れ味も良くなる。
安定には「五つ胴落とし」、つまり人体を5体重ねて斬ったという刀がある。山野加右衛門永久が64歳に及び、初めて行ったもので「万治四年辛巳年二月十弐日 天下開闢以来五ツ胴落 永久六十四歳始切之」と金象嵌を入れている。参考までに、重ね胴落としの最高は関の兼房作の刀で「七つ胴落とし」があり、「七ツ胴落 延宝九年二月廿八日 切手中西十郎兵衛如光(花押)」と金象嵌がある。
「新刃銘尽」に「大和守安定は江戸神田白銀町に住すといへり、一代鍛冶なり云々」とあるように、安定は江戸の神田で鍛刀していた鍛冶である。安定の出身については、従来越前説9割、紀州説が1割で、圧倒的に越前説が強く、刊本で紀州出身説を主張したのは「新刀弁疑」只1冊のみである。その他には門弟の関係からか「鍛冶備考」が奥州出身説をとっていたが、紀州説、奥州説は極く一部で説かれているにすぎない異説であった。しかし近来相ついで新資料が出現し、安定が紀州出身であることがほぼ間違いないと認められるようになり、「新刀弁疑」で鎌田魚妙の言っていたことが立証された。
脇指「紀州和歌山住安広造 大和大掾安定作」が残されており、造られたのは慶安元年から慶安2年の始めころにかけての間ではないかとおもわれる。安定と安広の師弟関係については、作風が類似しているだけでなく、安定の本名が冨田宗兵衛で、その姓からしても安定が紀州石堂派の鍛冶である可能性が強いとおもわれていたところに、紀州石堂の代表者であった安広と合作の脇差が出現したことによって、安定が紀州牟婁郡富田村の出身であったことはほぼ間違い無いとおもわれている。おそらく安広との師弟関係もあったと考えられる。
太刀「奉納御太刀冨田大和守安定於武州作之 大日本国補(陀)落山薬師寺 慶安弐年己丑九月十八日」は安定が郷里の粉河寺山内の薬師寺に奉納した太刀で、おそらく「大和守」受領の感謝の念を籠めての奉納であったのであろう。制作年紀のあるものではもっとも時代が遡る作である。銘文によって、安定が紀州と無縁の刀工でなかったこと、安定が江戸に出たのは、すくなくとも慶安2年あるいはそれ以前であることがはっきりしており、脇差で「大和守安定」と銘したものに、金象嵌で「截断二ツ胴山野加右衛門(花押)慶安元年十二月廿一日」と入れたものがあるので、この二本の作例によって安定の江戸出府が慶安元年以前であることが明らかになっている。
安定は富田宗兵衛と言っている。銘には飛田宗兵衛と切るものがあり、三代康継との合作に「(葵紋)康継以南蛮鉄於武州江戸、下坂市之丞作之、飛田大和守宗兵衛尉安定、須藤太郎左衛門盛氏所蔵」と切っている。
安定の生年については「大和守安定行年五拾三歳作之、寛文十暦八月日」と銘した作例があるので、逆算すると元和4年(1618)の生まれであることが明らかである。
安定は師の安広が紀州藩を致仕してほどなくであろうとおもわれる時期に「大和大掾」を受領しており、合作の脇差には「大和大掾安定」と銘しているが、慶安元年の作には「大和守安定」と切っているから、この間に「守」に転じたものとおもわれる。
安広が紀州藩を致仕してから、安定、安重は師とともに江戸に出ているが、その時期は正保元年の間であったことは間違いが無く、安定が慶安元年に出府したとすれば31歳。おそらく30歳前後で江戸に出たのであろう。江戸に出てから安定は和泉守兼重、越前康継あたりに師事したとみえて、江戸出府以降の作風には紀州石堂風よりも兼重、康継の影響とおもわれるものが強く認められるようになっている。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
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