私の父が、まだ元気であった頃に家に伝わった脇差しが1振ありました。錆ついていて状態が良くなかったのですが、父は先祖代々に伝わった品物であるということで地元の刀剣店で、研磨を仕上げて白鞘も作って保管していました。その父も数年前に他界してそろそろ1年が経ちます。家族と父の思い出話をしていると件の刀があることを思い出しました。良い機会でありますし私も含めて姉妹が多いので、今回に父が大切にしていた品を処分することを検討することにしました。素人の私が見ましてもあまり状態は良くないといえました。大きな刃こぼれと、片側には大きな錆が深くて穴になってしまっています。研ぎ上げた後は、父が欠かさずに手入れをしていましたので錆はありませんでした。銃砲刀剣類登録証は父が研ぎに出し前に大分県教育委員会から交付を受けていたようで、他界した後は私の名義に変更届を提出してあります。
状態があまり良くない刀だったもので、果たしてこの刀は売れる品物、売れない品物、引き取れる品物、とれない品物、或いは処分するにはどのようにすればよいのか、逆に処分費用がかかる品物かどうか判らないので、「日本刀買取専門店つるぎの屋」さんにメールで問合せさせて頂きました。
つるぎの屋さんではメールを利用した「画像査定」も行っていらっしゃるようだったので、脇差しの刀身の画像を全身、部分、柄、それと登録証を撮影してメールで送ってみることにしました。画像はデジカメで撮影して、それらをパソコンからメールで送付しました。
すると、翌日にはつるぎの屋さんからメールのお返事がすぐに届きました。メールのお返事には、銃砲刀剣類登録証がついている品物であれば法律的にも問題がありませんということでした。そして、金額に関しても銃砲刀剣類登録証を取得するには、都道府県教育委員会に申請料6,300円を納付するのでどんなに状態が悪くても5,000~10,000円くらいはするというお話でした。私は初めは無料で引き取ってもらえれば、または、逆に処分費用を支払わなければならないのかとも思案していたくらいだったので買取を行ってくださるということで安堵しました。査定額は状態がよくなかったもので、それほど高値にはもちろんなりませんでしたが、そのお金で父の好きだったお花を購入したいと思います。

大分県の旧国名は、豊前国と豊後国といいます。
豊前国は、西海道十一カ国の一つで、企救・田川・京都(みやこ)・築城・上毛(以上福岡県)下毛・中津・宇佐(以上大分県)の八郡、つまり現在の福岡県東北部と、大分県西部より成ります。幕末には、小倉に小笠原藩とその支藩、中津に奥平藩がありました。
刀工としては、まず宇佐神宮の社僧:神息の名があげられています。時代を古伝では和銅(708)としているが、それは信じがたいといえます。遺作も現存していません。ついで永延(987)ごろ、長円が現れ、名剣:薄緑を作りました。平安末期の定秀は、銘には「豊後国僧定秀」と切りますが、彦山で刀を打っているから、豊前の刀工とみなして差し支えありません。室町期になると、京都から信国や了戒の一門が下向して、いわゆる筑紫信国や筑紫了戒となり、子孫は今なお大分県宇佐郡安心院町に現存します。
新刀期になると、筑紫信国の末流:信国吉政は筑前の福岡へ、小倉城下の武井宣吉は肥後の熊本へ去って行ってしまいました。
豊後国は、西海道十一カ国の一つで、現在の大分県の内、宇佐郡・下毛郡・宇佐市・中津市を除いた部分で、ここには平安末期、早くも「薄緑」の作者:長円が名乗りをあげ、それを受けて鎌倉初期、僧定秀・紀新大夫行平・紀正恒らが活躍しました。ここには大友氏が鎌倉初期から、守護として勢力を張っていました。その庇護下にあって、豊後の北の関門ともいうべき国東郡高田、つまり現在の豊後高田市に、南北朝期になると友行が現れ、古高田物の基を開きました。その系統は、室町期になると、平高田派と藤原高田派に分かれ、技を競いました。
新刀期になると、高田鍛冶の本拠は、大分郡の高田地区に移りました。ここは関ヶ原の役以後、加藤清正の領地となったので、清正が古刀高田鍛冶の連中を、自領内に招き入れたのでしょう。加藤家のあとは細川領となり、その庇護下に幕末まで連錦と続きました。
以上のほか、各地に散発的にかなりの刀工が居住していました。幕末の臼杵藩士:橋本忠棟が鍛法を研究し、「刀剣固癖録」を著しているのは、注目すべきです。

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