佐賀県に在住するSといいます。肥前刀は私にとっては郷土刀にも相当します。しかし、肥前刀は肌の美しさのほかに見どころがない、という俗説に惑わされたためか、私は肥前刀にあまり関心を寄せていませんでした。しかし近江大掾忠広の豪壮雄大な一口の刀を見て、肥前刀の美しさに心を打たれ、縁あって私も郷土の肥前刀を愛蔵するようになりました。
肥前刀といえば五字忠吉といわれるように、肥前の地名は桃山以降の新刀期に名高いものとなりました。もっとも、南北朝から室町にかけて、筑前左の一統がこの地の平戸に住してかなり隆盛を極めたが、忠吉の名声の前には精彩を放ちませんでした。
二代忠広は慶長19年に父の忠吉が43歳の時の子で、寛永9年に父の死によって弱冠19歳の若さで二代目を襲名、父の晩年銘の忠広を名のるに至りました。俗に二代目の凡夫のそしりを免れ難く、今日まで初代忠吉・三代陸奥守忠吉に比べて軽視の観があります。その理由の一つは、二代忠広は寛永18年に近江大掾を拝命して元禄6年5月28日に80歳の長寿を全うして没するまで、実に60余年の長きにわたって作刀をなし、今日現存している肥前刀の中でその数において随一とうたわれることに由来します。
数多い近江大掾忠広の作品の中で、そのほとんどが特徴として中直刃で変化に乏しく、めぼしいものとして散見しうるのは、食違刃またはほつれのあるもののほか、乱れ刃は珍しく、稀にあっても初代に比して大いに劣ると古来いい伝えられてきました。しかし、私が手に入れた件の忠広は、肥前刀としては珍しく派手な丁子乱れで、匂の深い初代を凌ぐ覇気に満ちたものであります。このような雄大でしかも華麗な肥前刀を経眼したことはなく、従来もっていたわたしの肥前刀観を改めざるをえなくなりました次第です。
お陰様で重要刀剣にも唯一私の名前で指定された愛刀でありましたが、私もそろそろ刀の手入れをすると重く感じるようになって参りました。長年にわたって愉しませてもらった刀には感謝の念に堪えません。

佐賀県の旧国名は、肥前国といいます。九州つまり西海道の一国で、九州の北西部に位置し、現在、佐賀・長崎の両県に分かれます。略して西肥ともいい、古くは火前国と書き、比乃三知乃久知(ひのみちのくち)国と訓みました。
古刀期:建武(1134)のころ、筑前から左文字系の盛広が、松浦郡平戸に移ってきて平戸左派、応永(1394)のころ、筑後から三池系の光世が彼杵郡大村に移ってきて大村光世派の祖となりました。そのほか、鎌倉期には、藤津郡に末員、南北朝期には、高来郡諫早に利成、杵島郡塚崎に末貞、彼杵郡相神浦に有国らの一派がいました。室町期になると、松浦郡浜崎に重則、同郡山代に宗貞、藤津郡志保田に末則らがいました。
新刀期:忠吉・宗次の二派があって、肥前物はまたは肥前刀の名を、天下に高めたことは周知のところです。そのほか、平戸藩工の土肥真了は、幕末まで連錦と続いたが、唐津藩工の松葉本行は、藩の移封により下総国の古河へ去りました。長崎の養利は江戸へ召され、南蛮鉄で作刀しました。京の丹波守吉道は、島原城下に駐槌したことがあります。幕末には大村藩士の重秀が大慶直胤仕込みの刀を打っています。
装剣具:長崎には、全国的に知名度の高い若芝派のほか、銀屋物と呼ばれる一団は、南蛮風の作品を出していました。長崎に近い矢上の光広は群猿の図、平戸の国重はローマ字を入れた図案で、注目を集めています。そのほか地味だが、釘本・金家・宮田(甲冑師)・伊藤、さらに刀匠の鉄鐔が挙げられます。

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